「演技」と「表現」の違いについて考えてみた。
「演技」と「表現」についての考察の記事を"これってぃ"こと、是常祐美嬢が引用していて、面白いなぁと思って考えてみた。
目の奥底を見れば
— 立花裕介 (@UsuketacHibana) May 2, 2019
その人が
演技の人なのか
表現の人なのか
よく分かる
目は口ほどに物を言うから
というのが僕の自論 https://t.co/NOc3numZ94
板の上に立っていて感じるのは、目。目の奥底には人の感情というものが露骨に出ると思っていて、「演技」をしている目というのは、それっぽい「目」をしている。「表現」をしている目というのは、騙されそうになるくらい本気で訴えかけてくる。経験からそんな風に感じている。
実際、劇団時代、客演で出演してくださってた上田泰三さんの目が本気すぎて、稽古中に笑ってしまった事をよく覚えている。ご本人は「なんでやねん(笑)」っておっしゃってたけど。芝居なのか本気なのかわからなくなってしまって、全部気持ちを持ってかれた。
でも実際に
— 立花裕介 (@UsuketacHibana) May 2, 2019
スゴイ人は
高度なレベルで
どちらも持ち合わせてると思う
どちらかだけの人なんて
いないと思う
どちらか片方だけ、なんて事はなく、舞台の上での見せ方であったり、カメラに向ける角度であったり。声の出し方、立ち位置の把握、音響のタイミング、etc…これは、「演技」とは言わないかもしれないけど、「表現」している自分とは違う、もう一人の自分が、テクニックとしてコントロールしなければいけない事だ。これがなければ商品にはならない。
初めてお芝居する人は
— 立花裕介 (@UsuketacHibana) May 2, 2019
わかりやすく表層で見てとれる
「演技」の方に目が行きがちで
「演技」をしがちだなぁと思う。
形から入るって
言い方ができるのかなぁ
これは、自分の見てきたものの"マネ"から入る人が多いとでも言い換えれるのか、テンプレート的に、”怒り”だったら大きな声で怒鳴る。”悲しみ”だったら泣く。”驚き”だったらワッと声を出す。ような演じ方をする人が多いように見受けられて、怒っていても静かだったり、悲しくても泣かなかったり、驚いたからこそ声が出なかったりする事もあっていいのだけどなぁと思う。ただ、その時に演出家がほしい情報としての一面もあるので、一概にテンプレートが悪いとは言えないのだけど。
それがいいとか悪いとかではなくて
— 立花裕介 (@UsuketacHibana) May 2, 2019
「表現」というものは
心の奥底にあるものだから
伝わりにくいし
時として
「表現」も
「演技」だと
捉えられているんだろうなと思う
「表現」は心の奥底から湧いてくるものを起源としているから、そのもののエネルギーが大きくないと表面化しづらい。大きな舞台だと、そんじょそこらの感情を頼りにしていては、伝わるものにならなかったりする。それを「演技」という技術で補ったりする訳だけど、表面化しているものを全て「演技」だと思われているのではないかと思う事がある。表面化することは同じかもしれないけれど、その出発点は「表現」と「演技」では180度違う。
最近よく耳にする
— 立花裕介 (@UsuketacHibana) May 2, 2019
そこに存在したい
というのは
「表現」の言葉だなぁと思う
内面の感覚を
しっかりと太く準備できている時
自分でも想像もしていなかった芝居を
してしまう
奇跡的に“そうなってしまう“時がある
頭で考えたんではなく
皮膚感覚で身体が動く時がある
常にそうありたいなと思う
そこに存在したい。
とてもステキな言葉だと、僕は思っている。自分が役としてその劇世界に浸る事ができた時、思いもよらない自分が現れる事がある。段取りやセリフのことを忘れて、その瞬間、思考ごとその役として、相手にのみ集中できた時、生きたセリフが吐けるように思う。何か、舞台のことを立花として考え始めた時、自分のことを考えるのをやめて、相手の事のみを考えるようにしている。
台本という「形」で
— 立花裕介 (@UsuketacHibana) May 2, 2019
頭に入ってくる「セリフ」を
いかに
形のない「表現」にするかと
いうところが
難しいところなんだと思う
これも同じことかもしれない。「セリフ」を「セリフ」として捉えている時は、ハキハキと、大事に、誰かに一言一句聞こえるように声を出してしまう。そりゃあお客さんには聞こえなければいけないのだけれど、聞こえるか聞こえないかギリギリのところで「表現」としてハキハキではなく、言葉を濁したり、あえて聞こえづらくなったり、そんな事があってもいいよなと、それが血の通った"やりとり"なんではないかと思う。普段、僕らは常にハキハキと喋らない。
あ、あと空間のサイズにも
— 立花裕介 (@UsuketacHibana) May 2, 2019
よりけりで
大きな空間になればなるほど
届けるための技術
「演技」
が必要になってくる
自分の内面を届けるには限界があり
その限界を補うために
逆に小さな空間では
それはドンドン必要なくなってきて
逆に「表現」が問われ始める
前述した通り、心は目にみえない。心を起点とする「表現」は時としてわかりにくい。それをフォローするために「演技」があると思っている。
大劇場では目で芝居をしても、一番奥のお客さんは何も変化を見て取れない。だからこそ「演技」を使って、自分の「表現」をより伝わりやすく加工する。逆に小さな劇場ではその大きな「演技」は邪魔になってくる。無駄を省き最小限を「演技」で「表現」を見せる。その時こそ「表現」が問われ始めるんじゃないかと思う。カメラなんかを相手にするなら、尚更だ。目のアップになれば心底感情が動いていないと全部バレてしまう。
あと、ダンスにも同じような事が言えるかもしれないと思っていて。
ジャズ、バレエ、ヒップホップ、ロックなどが「演技」だとしたら、
コンテンポラリーダンスというのが「表現」なのかもしれないなと思った。
ジャズやヒップホップには決められた形があり、それは技術として存在していて、技術だけでも成立する瞬間がある。ところがコンテンポラリーはそうはいかない。自分の内面から湧き出てきたものを「表現」するので、時として形がない。だから見る人によっては何をやっているのかわからない事がある。でもそれは技術として捉えようとしているからであり、生き様としてとらえようとすれば伝わるものがあるはずなのだ。と思ったりする。
でも「表現」として成立しているジャズやバレエやヒップホップやロックもあれば、「技術」に裏付けされたコンテンポラリーダンスもあって、やっぱりすごいものは、問答無用にすごい。ダンサーではない、立花のダンス感。
なんてことを考えましたとさ。
だけど、演技論なんて人それぞれ。
これが当てはまる人も、当てはまらない人もいると思います。
僕もまだまだ模索中です。
「だからお前はダメなんだよ!」という関係者の方々のお声をお待ちしています(笑)
5/6 追記
だから、そうか
— 立花裕介 (@UsuketacHibana) May 6, 2019
大きい声出す練習とか
はっきり喋る練習とか
早く動く練習とか
カッコよく立つ練習とかは
目に見えてわかりやすいから
よくやられてるんだけど
目に見えない
感じる練習って
あんまりされてないように思う
いいなと思ったら応援しよう!
ほんの少しでもお力をいただけると、嬉しいです。
より明日に、未来に向かって歩を進めることができます
スキ、サポート、心が動いた分だけ、どうぞよろしくお願いいたします。