ただ、ついに「名前がつけられた」のだ。
〜8月31日 00:30
真の悲しみを知る者は、涙を流さない。
Campanellaを失ったGiovanniのように、ただ黙り込むのだ。
涙を流さない種類の悲嘆というものが存在する。それは言葉の失調(不全)をもたらす悲しみだ。その喪失はあまりに大きく、通常の喪失を悼む語彙には到底収まりきらない。「悲しい」と口にすることすらしない。なぜなら、その一文そのものが不適切になってしまっているからだ。
死者を悼む際に私たちが期待するようなやり方で、Campanellaのために涙を流すことはない。もっと根底にある何かが消え去ってしまったのだ。一人の友だけでなく、その友が生き続けることができたはずの世界そのものが。
おそらくこれこそが、1990年代の私たちに起きたことなのだ。
私たちはあまりにも多くのものを、一度に失いすぎた。
かつての政治世界は消滅した。ユーゴスラビアは戦争の渦中に消え去った。ソビエト連邦は崩壊した。冷戦がもたらしていた確固たる秩序は吹き飛んだ。日本ではバブル経済が崩壊し、大地震や暴力、Aum真理教の事件が続き、約束されていたはずの未来がもはや自分たちを待っていないという残酷な事実に、私たちは少しずつ気づかされていった。
それにもかかわらず、私たちには起きた出来事を語るための「言葉」が必ずしも与えられていなかった。
理論はあった。サブカルチャーもあった。オルタナティヴ・ミュージック、ノイズ、実験的芸術、各種雑誌、政治哲学もあった。皮肉(アイロニー)や冷笑(シニシズム)もあった。現実から距離を置くための、無数の文化的参照軸なら手元にいくらでもあった。
しかし、そのすべての底底には、もっと静かな何かが横たわっていた。
私たちは、名前をつけることすらできない喪失に苛まれていたのだ。
1990年代は、しばしば「過渡期の10年」として記憶される。冷戦の終結。グローバリゼーションの到来。資本主義の勝利。インターネットの誕生。新しい世界の始まり。
しかし、この「過渡期」という言葉には問題がある。
それは、旧世界に「取って代わったもの」が何であるかは教えてくれる。
だが、「何が失われたのか」については何も教えてはくれない。
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8月10日 01:00 〜 8月31日 00:30
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