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壊れたガラス細工はもとにもどらないけれど

                             


   序章


 秋口のある朝、大学の一回生になったサラはタンクトップに白の半透明のカーディガンを羽織って、自宅の最寄りの私鉄の駅の改札口に向かった。

 自宅のある新興住宅地は駅からやや離れた丘を切り開いた場所にあった。

サラが家を出てしばらくは同じ方向に歩く人もまばらで、駅に近づくにつれて人波が続くようになった。

 駅までゆっくり歩いて二十分近くかかる道のりだった。

サラは靴音を立てて小走りに道を下った。

 サラが駅に着くと、駅の改札には

「人身事故遅延」

と書かれたホワイトボードが出ていた。

「また事故か……朝の講義に間に合うかしら?」

 彼女は時間を気にしながら改札を通ってホームに出た。

すると散布された薬剤のにおいを感じた。

 彼女はそのにおいに眩暈を覚え、思わずすぐ近くのベンチにぺたりと座り込んだ。

 そのベンチには女子高校生の持ち物と思われる紺色の鞄が置かれていた。

鞄には緑色の子熊のぬいぐるみが結び付けてあった。

 眩暈のため膝の上に頭を覆った形で座っている彼女に駅員の男が声を掛けた。

「お客さん、大丈夫ですか?駅の事務室で休んで行かれますか?」

 駅員は紺色の鞄を取り上げながら彼女に言った。

 彼女はかろうじて、

「いえ、大丈夫です。」

と駅員に答えた。

 鞄を両手で抱えて改札の方に戻ってゆく駅員の顔色はよくなかった。

 サラは遅れて到着した電車に乗った。

 電車の中で彼女はさっき見た鞄のことを思い出した。

 そして人身事故とはその鞄の持ち主の身の上に起こったことではないかと想像した。

 大学に到着すると朝の出来事を思い出さないように、いつもの講義や友達との会話に気分を紛らせた。

 帰りには朝とは反対方向の電車に乗り、自宅の最寄り駅で降りた。

そして朝通ったのと同じ改札口を通った。

 彼女がちらりと改札口の横の事務室をガラス越しに見ると、朝自分に声をかけた駅員がいた。

彼は制帽を脱ぎながら、駅長らしい人物にこんな話をしていた。

「今朝の事故、けっこう電車の遅延が出ましたから、会社の方からの損害賠償の請求は相当の金額になるんでしょうね?亡くなったご当人は知らないで済むけれど、親御さんはこれから大変でしょう」


 サラはその夜、なかなか寝付くことができなかった。

 眼をつぶると駅のホームの情景が脳裏に浮かんだ。

 自分がぺたりと座り込んだベンチに置かれた鞄につけられていた子熊のぬいぐるみは泣いているように見えた。

 彼女はベッドの中でうつらうつらとし始め、いつの間にか夢を見はじめていた。

 彼女が耳を澄ますと、どこからか若い女性の声がつぎのように言っていた。

「誰か、聞いて。わたしの話を、聞いて」

 そして彼女の目の前に見えるホームの前の線路の光景の真ん中に、小さな渦巻きが現われ、それは地上で窪んで、漏斗状の穴を削って行った。

「わたしはどうしてもあの蟻地獄に入りたくなかったの。だから、だから……」

 サラは聞き返した。

「どういうこと?」

「あの蟻地獄に自分が吸い込まれるのはどうしてもいやだったの。だから、吸い込まれる前に自分で自分を消すことにしたの」

「よくわからないわ……」

「本当はね、わたしは生きているのが怖くてしかたがなくて、蟻になって蟻地獄に落ちて食われたいと思っていたの。でも、自分のなかでもうひとりのわたしは、それがどうしてもいやだったの。自分の中でふたりがずっと喧嘩していたの」

「わからない。全然わからない!」

「今はわからなくても、あなたはすぐにわかるようになるわ。あなたはまわりの人々があなただと思うとおりのあなたなのでしょう?そういうあなたを演じるのに一生懸命だから、それに気が付いていないだけよ」

「わたしはふつうに暮らしているだけよ。演じたりしていないわ」

「自分が生きたいとおりに生きていると言える?」

「それは……本当は画家になりたかったけれど、両親に止められて……」

 サラは五歳の時から絵画を習っていて、高校二年になるとジョルジュ・ブラックの影響を受けた抽象画を描くようになっていた。

彼女は美術大学に進んで画家になりたかったが、父母に反対された。

その頃父母は彼女につぎのようなことを繰り返し話した。

「プロの画家になるのは難関だよ。美術大学に進学すると教職の資格をとって学校の美術の先生になったり、自宅で子供に絵を教えたりする道を歩む人がほとんどだ。画家を職業として生活できる人はごく一握りらしい。そういう狭い道を選ぶよりも、絵を描くのは趣味にしておいて、就職がしやすくて教職もねらえる学部をめざしたらどうか。」

 サラは結局画家になる道は諦めて、親の言う通りに受験勉強をして現在の大学の学部に合格した。

 サラに語り掛ける若い女性の声が話を続けた。

「あなたにはわたしの気持ちが今はわからないでしょう。わたしにとって生きていることがどんなに怖かったか、でも死ぬこともどんなに怖かったか……でも、生きたかったの。だから、死んでしまう前に、自分で自分を消したの。それを誰かにわかってほしいの」

 サラはその女性の声の語る話が理解できなかった。

そして自分に語り掛ける声がどんどん低くなってゆくことにぞっとして、鳥肌が立った。

 彼女はその声に尋ねた。

「あなたにはいったい何があったの?」

「それは言いたくないわ。でも、いつかあなたにはわかる時が来るわ」

 こうしてその声が途切れた途端、彼女は自分が慣れ切っていたこの世界に蟻地獄の穴のように一点が開いていて、そこに向けて世界が地滑りのように流れ込んで行く幻視に囚われた。

 そこには朝ホームで嗅いだ薬剤のにおいが漂っていた。

 

 つぎの日、サラはいつものように駅に向かい、改札口を通った。

 ホームは昨日の事件などなかったかのようにきれいに清掃され、通勤通学の客がじっと沈黙して電車を待っていた。

 彼女は電車を待つ列にいつものように並んだ。

 そして後ろを振り返ると、昨日自分がぺたりと座り込んだベンチが眼に入った。

 突然、彼女は何事かを大きな声で叫びたくなった。

 彼女はその衝動を辛うじて抑えながらもそのまま立ち続けていることができず、結局前日に座り込んだベンチに再び座り込んだ。

 そこにはもう子熊のぬいぐるみのついた鞄はなかった。

 ラッシュアワーの時間帯が終わりに近づく頃、彼女はやっと立ち上がって、電車に乗り込んだ。

 発車する電車の最初の振動の中、あたかもかけがえのない繊細なガラス細工が壊れたような音が耳に響いた。



第一章


 サラは奈良県の西の端、生駒山の麓に広がる新興の住宅地で分譲された戸建ての住宅で育った。

 サラの育った家庭には、大阪市内の中学校の国語の教師であった父親と、大阪府下の図書館の学芸員の経歴のある母親と、三つ違いの一人の妹がいた。

サラは地元の中学と高校に通い、奈良市にある大学の社会学部に進んだ。

 大学に入るまでのサラは午後六時半の門限を守り、宿題を忘れることもない、親や教師の手のかからない子供であった。

より正確には、彼女はそういうよい子供として振る舞い続けた。

 彼女は自宅にたくさんあった親の蔵書の小説や詩を読むのは好きであった。

しかし実のところそうした文芸作品の表現する人生の悩みや罪の意識や失恋の傷心などに実感を持つことができなかった。

人に聞かれればあらすじはすらすらと答えられるのに、著者が何を言いたいのかを自分の言葉で言い表すことができなかった。

 彼女には反抗期らしい反抗期が訪れることがなかった。

彼女は中学を卒業するまでは妹たちと同じ部屋で寝起きし、同じ部屋で勉強し、独りきりの時間は持ったことがなかった。

彼女が高校に進学すると、父親は子供部屋の真ん中をリフォーム工事によって仕切って、彼女に個室を与えた。

それで彼女は独りきりの時間を持つようになった。

彼女は高校では美術部に属していた。

美術部には数は少ないが男子生徒もいて、彼女は女子生徒から人気のあった一年先輩の男子生徒に憧れをもった。

バレンタインデーにはその生徒に手製のチョコレートを贈ったが、ついにファンの一人以上の存在になることはなく、彼女自身もそれに甘んじて諦めていた。

その頃の彼女はおかっぱの黒髪に睫毛の長い大きな目で、まだ子供らしいあどけなさのあるタイプだった。

男子生徒に目立って人気があったわけではないが、男子生徒の何人かは彼女に目をつけて登下校の時に声をかける者もいた。

彼女はそういう男子生徒は恋愛の対象という気がしないで、ただの友達として遇した。

彼女の恋愛観は書物から得た知識で形作られていて、誰かが好きという感情を抱くということはなかった。
 大学に進学すると、彼女は自宅から通学した。

入学当初は、彼女の生活は高校の頃とあまり変わらなかった。

ただ、制服ではなくなったので、自分の服装は自分でファッションを研究して揃えるようになった。

化粧も毎日念入りにするようになった。

彼女は身支度しながら自分の姿を鏡でみるうちに、この自分の容姿が男性には魅力的に見えるであろうことにようやく気が付いたのであった。

 そして彼女は自分に近づこうとする男子学生とデートをするようになった。

しかし彼女はデートにはなじめなかった。

彼らとどういう話をすればよいのかをデート中に考え込んでしまうことが多かった。

それで男子学生たちは彼女が謎めいた雰囲気の無口な女性と理解した。

彼女は大学の第二外国語などの教養科目については高校の延長の感覚でついてゆくことができたが、社会学の入門講義はよく理解できなかった。

 彼女の知っている社会とは親と姉妹との家庭であり、まだ存命の父方の祖母や父母の兄弟を含む親戚であり、学校のクラスや部活のサークルであった。

それらを社会というのであれば、どれも自分よりも先にすでにあったものであった。

それがどういう成り立ちのものかということは考えたことがなかった。

もちろん、高校で政治経済や歴史などの社会科学系の勉強はしたのであるが、彼女にとって、それらは博識を競うクイズのための知識以上の実感を持っていなかった。

彼女は社会学の講義を聞いて、社会とは単なる複数の人間ではなくて、あるルールのもとに共存を実現している集団である、というところの実感が湧かなかった。

彼女は提出を求められるレポートを文字で埋めるのに苦労した。

彼女は教科書の文字を写すだけであれば難なくこなすことができたが、それを自分の言葉で置き換えたうえでさまざまな論点との有機的な関連を論証することがうまくできなかった。

彼女は大学の講義や教科書を記憶力とその再現でしのぐという方法ではもはや限界があることを感じた。

彼女は一回生の秋には社会学部を選択したことにしばしば後悔するようになっていた。


 駅のホームで人身事故のあった数日後、サラの父親は、うちの家計が学費の負担に耐えられないから、サラには何かアルバイトをしてほしい、と言い出した。

そして、自分には教師としての世間体があるから水商売は困るが、なるべく時給のよいアルバイトを探してほしい、と頼んだ。

 彼は質問や反論の余地のない既定の事項を申し渡すかのようであった。

 それが彼のいつものサラへの態度だった。

 彼女はそのようにいわば命じられたので、小さいころからこれまでそうであったのと同じく、疑問を抱かないで素直に応じることにした。

彼女は時給の高いアルバイトの口がないか、仲間の学生に相談した。

仲間は市内の某病院での清掃のアルバイトの募集があって、まあまあの時給が出るらしいと彼女に教えた。

 サラはその清掃の仕事に応募した。

 清掃会社の採用担当が彼女を面接した。

 採用担当は、

「この病院の仕事は拘束時間は短いけれど、けっこう精神的に負担になるから、そのつもりで来てほしい。詳しくは現場の主任から聞いて。」

と言って、彼女をアルバイトに採用した。

 彼女は早速、その日の夕方のシフトに組み込まれた。

 彼女はその病院に初めて足を運んだ。

 その病院は、元は海軍の軍医であった先代の院長が退役後に開業したものだった。

病院の玄関には、先代院長が勤務していた軍艦の碇だという金属の塊が、その旨を説明する立て札と共に飾られていた。

 予め出入りするように指定されていた裏口に回ると、裏口の前には自動車二台ほどの停まれる駐車スペースがあって、あめ色に塗られた外車の胴長なワゴンカーが一台駐車していた。

車の外には黒いスーツを着て白手袋をした、銀髪で鶴のように痩せた男性が立っていた。

彼は無表情で煙草をふかしながら、誰かが出て来るのを待っている様子であった。
 彼女が裏口の金属の取っ手を回して、網ガラスの入った重い扉を開けた。

するとすぐ前の廊下には、白い布の被せられた、丁度人間の体がすっぽり入るぐらいの大きさの箱が車輪付きの担架に乗せられていた。

その担架は全身黒づくめの中年の女性に押されてサラの方に向かった。

箱の後ろには普段着らしいカーディガンにズボンを穿いた初老の女性がゆっくりついて歩いていた。

その女性の横には白衣を着た病院の事務員らしい男性が同じ歩調で歩いていた。

その女性とその男性とは歩きながら何かの金銭の精算の話をしていた。

サラは初老の女性の目と鼻が赤く目立つのに気が付いた。

 サラは壁際に体を押し付けて、箱とその三人の随行者とが裏口を出るのを見送ってから、廊下を進んだ。

そして「清掃員控室」という文字のある扉の前に立ち、ノックした。
 どうぞ、という声を聞いて、彼女は控室に入った。

「ヨシジマ・サラさんですね。私がこの病院の清掃現場の主任のシモジマです。」

 シモジマと名乗る男は五十少し前ぐらい、背があまり高くなくて、やや太った体に、会社支給の若草色の作業着をまとっていた。

 二坪ほどの控室には、病院の待合室のお下がりと思われる、ビニールカバーのあちらこちらが裂けて中から茶色に変色したスポンジがのぞいた長椅子が一つ置かれていた。

そのほかには家具らしい家具はなかった。

シモジマは自分の体を重たげに長椅子の左端に移動させ、サラにその右端に座るように合図した。

 シモジマは手元の資料を覗き込みながら話を続けた。

「ヨシジマさんは午後七時から九時、週三回のシフトですね。土日も週によってはシフトが入ります。いいですね?」

「はい。さっき会社でうかがっています」

「持ち場は、一階のバックヤードね。今から案内します。作業自体は二時間フルにはかからないと思います。あと、ここは着替える場所がないから、女子トイレで適当に着替えてね」

 サラは女子トイレでシモジマから渡された男女兼用のSサイズの作業着に着かえて、控室に戻った。

 シモジマはサラを連れて控室を出た。

 廊下でシモジマが話を続けた。

「それからね、ごみ箱は絶対に素手で触らないでね。注射針とか時々捨ててあって、手に傷がつくとそこから肝炎とか入って来ちゃって厄介だから」

 シモジマは先ほどサラが通って来た廊下を逆に裏口の方に進んだ。

「このあたりから裏口までの廊下と、そっち側の給湯室も、作業の範囲です」

 シモジマはカタカナで「バックヤード」と書かれた扉の部屋の前に立った。

「丁度今、部屋は空になったはずなんだけど」

 彼はそう言いながら扉を開けた。

「三州屋さんは慣れているから、もう担架をちゃんと戻してくれています。あっ、三州屋って、この病院によく出入りしている葬儀屋さんです。」

 十畳ほどの部屋は樹脂のタイル張りの白い床で、すりガラスの入った窓にはレースのカーテンが掛けられていた。

 部屋の真ん中には先ほどサラが見た担架が戻っていて、その枕元にあたる場所にやや背の高い小机があって、その上には燭台が一対と、花瓶が一つ置かれていた。

「シモジマさん、この部屋は、霊安室、ということですね?」

 彼は眼をあたかも突然興奮したかのように一瞬ぎらつかせて、サラの目を見ながら答えた。

「そうです。そのとおりです」

 シモジマはサラの表情に気を付けているようであったが、彼女の表情が変わらないことを確かめてから、目を逸らして続けた。

「ヨシジマさん、驚かないんですね?」

「はい、このアルバイトがどういうものかは、仲間から聞いてだいたい想像していました。だから割高の時給なんだ、ということは、承知の上です」

 シモジマはサラのこの言葉を聞いて、うん、と一つ頷いてから言った。

「部屋にご遺体のご家族が詰めていたりする日は、邪魔にならないように目立つごみだけを拾って、ごみ箱を片付ける程度で構いません。そういう日は、私に一言断れば、早く帰っていいです。でも、ご遺体だけが置かれている時には、掃除は通常通りに実施してください。この現場はつらいこともあるから、仕事が終わったら、甘いものでも食べて、うまく気を晴らして、長く続けられるようにしてください」

 こうして、サラのアルバイトの初日が始まった。

 シモジマは、サラの脇について、掃除の技術を指導した。

がらんとしたバックヤードと廊下はポータブル式の掃除機を肩にかけて丁寧に清掃すること。

花瓶の花が残っていることがあっても持って帰ったりしないこと。

花瓶は給湯室でざっとゆすいで、水を入れて戻しておくこと。

蠟燭の火は誰もいない時には消して、必ず火種の残っていないことを確認すること。

消臭の必要を感じたらば消臭剤をまくこと。

シモジマがこういった注意事項を説明し、サラはそれをメモにとった。



   第二章


サラが病院の清掃のアルバイトを始めてから一か月が経過した。

彼女は霊安室の清掃という仕事を何の驚きも疑問もなく受け入れて、次の日から独りで指示されたとおりにこなしていた。

彼女は一か月たって振り返ると、この仕事に特段の抵抗も感じないでこなしてきたことが自分でもやや不思議に思えた。

霊安室にぽつんと安置された遺体はたいてい白い布を被せられていて、その下の体格は白い布の凹凸から何となく想像された。

遺族が部屋に来ている時に布の一部がめくられているのを目にすることもあった。

その下にあるのは、大抵の場合は青白い老人の顔で、表情や緊張といったものと無縁となった、安らいでいると表現するとしても満更はずれでもないような無表情であった。

白い布の下の体格が普段見る布の凹凸よりも小さいこともあった。

彼女は、それは子供の遺体だろうと想像した。

その時も彼女は掃除機のノズルを担架の下に突っ込んで、決められたとおりに清掃を行った。

そして作業が終わると作業着を着替えて電車に乗り、自宅に帰った。

この仕事をするようになって彼女が変わったことといえば、自宅で家族と話をほとんどしなくなったことだった。

シャワーを浴びて遅い夕食をとるとすぐに自室に入って、大学の勉強をそそくさと済ませた。

そしてあとの時間はSNSを見て友人や知り合いと短いやりとりをして、十二時にはベッドに入った。

彼女はベッドに入ってから、毎晩なかなか寝付けなかった。

ある時はとても些細な、たとえば前日大学で友達との話の中で歌手の名前を言いまちがえたとかいった、言動の過ちが一晩中気になった。

またある時は小さい時に両親と動物園に行った記憶を思い出した。

自分はゴリラを見たかったのに、両親が

「ゴリラの檻は順路から外れているんだ。時間がない」

と言って立ち寄るのを省略したことを思い出した。

その時自分は

「ゴリラが見たい」

とはっきり口に出すことができなかったことを後悔した。

また別の時には、自分の大切にしていたぬいぐるみを妹に貸したら、妹がその首を千切ってしまったことを思い出した。

その時にも、自分は泣いたりしないで我慢したのであった。

このようなささいな過去の記憶を呼び起こして自分への後悔を繰り返すうちに、彼女は、自分が無力であって、やることなすこと間が抜けていて、事実をどうすることもできないのはないか、という思いに悩むようになった。

たとえば、あす定期券を買い替えるようなことですら、自分にはうまくできないのではないか、忘れてしまうのではないか、と不安になるのであった。

そしてサラは後悔を繰り返すうちに、それを何かの反動によって是正しなくてはいられない思いが募るようになった。

そうしないと自分の願っているような自分を保ち続けることができないのではないか、と思った。

無力でもなく、愚かでもなく、まして汚れてもいない自分。

そういう自分を保つために、自分を罰してつぐないをつけたい、そういう気持ちであった。


 サラはそういう気持ちが断続的に胸中に沸き起こるなかで病院の清掃の仕事を続けた。

 彼女は時々偶然に目にする遺体の表情の中に、葛藤から解放されて天に帰った人の諦めと安心が読み取れるような気がした。

 それからは遺体が安置されていて、ほかには自分しかいない時には、そっと遺体の白い布をとって遺体の表情を眺めるようになった。

 そして彼女は

「自分もこのようになってしまえればどんなに楽になるだろうか」

と夢想した。

それと同時に、自分が独りこの部屋に遺体となって安置されることは、もはや取り返しのつかない、おそろしいことだとも思った。

 彼女は自分でもこの矛盾する二つの思いを持て余した。

執拗な想念の回帰、願望が達成される高揚感の想像。

そして願望が実現してしまう恐怖。

小刻みな体の震えを伴う戦慄の中にこれらのものが一度に立ち混ざった。

そのとき、半年前の駅での一件と、そのあとに見た夢の女性の言葉を思い出した。

「……でも、いつかあなたには、わかる時が来るわ」

彼女はわかる時はたぶん来たのだと思った。

しかしそれがわかっても、そこでどう扱ってよいかがわからなかった。

サラは病院のアルバイトを続けるうちに、人の死が自分のあたりまえな日常になっていて、泣きはらした遺族の顔も見慣れてしまった。

さまざまな死因の遺体がきれいに清拭されて、衣装を整えられて、寝棺に入れられて、粛々と運び出されてゆく。

生きているうちはなるべく管理に困らないように行いを整えられ、盆栽のように枝を切りそろえられ、目に見えて悲惨な状態にならないだけの栄養を与えられ、暴発しないようにお酒や娯楽といったサプリメントも与えられ、そして病気やけがになれば人目に触れないように病院に入れられ、そこで死んで、きれいに清拭される。

つまり、生きるとは秩序づけられた死へのプロセスなのではないか、そう思うようになった。

彼女は清掃の仕事を始めてから絵筆を握らなくなっているのに気が付いた。

自分から何かを創るということよりも、きれいに後片付けをしてしまうことの方が自分の気持ちに合っている気がした。

サラは大学に行っても学生たちがにぎやかに笑い会っている様子を横で眺めていることが多くなった。

彼女は誰であろうが秩序づけられた死へのプロセスにあるのだと思うと、会話の輪に入ってゆく気が薄れるのを感じた。

彼女は大学の友人たちとコンパに行くこともあった。

奈良市の中心にあるアーケードのある商店街から一歩小路を入ったところのイタリア料理の店でのコンパに参加したことがあった。

コンパには京都から電車に乗ってやって来た男子学生も何人か入り、女性の参加者も思い思いのおしゃれをしていた。

サラも前日に美容院に行って腰までの黒いロングヘアに群青色のメッシュを入れ、当日も時間をかけて化粧をして参加した。

コンパの席は男女とも五名で、席はくじ引きをして決めて男女互い違いに座った。

しばらくすると一座に口当たりのよい白ワインの酔いが回り、会話が次第に大声になって呂律が回らなくなった。

サラは向かいと両隣の男子がそれぞれほかの女子と会話を始めたので、おのずと会話の輪から外れてウーロン茶を飲みながら見ながらひとり考えた。

……友人たちは束の間の逸脱を楽しんでいるのだ。

秩序だったプロセスからはみ出すスリルと解放の快感。

それらに泥酔しているのだ。

そう、スリルと快感とはセットで、それは日常からの逸脱に伴うものだ。

管理された日常から抜け出て、スリルと快感との泥酔の中に逸脱することだ。

スリルと快感とは何か?

それは結局のところ死を前提としたものだ。

死ぬまでの管理された長いプロセスから逃げ出すために、死を疑似的に体験して泥酔するのって、何かおかしくないかしら?

死というゴールをフライイングする、ってこと?

そんなに日常が退屈ならば、泥酔なんかしないでプロセスの最後の場面に一気に突き進んでしまえばいい。

でも、友達の誰もがコンパの翌日にはいつもの通り身支度して学校に来ている。

それは管理された日常のプロセスの方にうまく立ち戻ったということなのだ……

サラの右隣に座った男子はこのように黙りこくって考え続けているサラを不思議そうな目で眺めながら、さらに右隣に座った女子との会話を途切れさせることはなかった。


ある日、彼女は清掃から帰って自宅でシャワーを浴びた後、鏡の前で自分の姿を見た。

そして突然、その姿が一変してこの世のものでなくなることを想像した。

「こんなこと、これまでに思ったことはなかったのに……」

その時洗面台に置かれた棒剃刀に視線が止まった。

そして彼女の心臓はどきどきと脈打った。

 彼女は、その棒剃刀で体に傷を入れることを想像した。

「これはわたしの日常への反抗なの……」

傷を入れた瞬間には極限に達した恐怖と緊張とが解放され、傷の痛みを快感と錯覚して、自分の瞳が暗くぎらぎらと輝くであろうことを想像した。

それと共に、そのような自傷行為を考えること自体に罪悪感を持った。

……体に傷をつけるようなことをすると、もう親にとってのよい子でなくなり、世間からも冷たい扱いを受けるであろう……

そんな思いが彼女にブレーキをかけた。

彼女の心の中で、体に傷を入れることを要求する力と、それをやめさせようという力とが、まるで互角の綱引きのようにピンと釣り合った。

一点で釣り合っているがゆえに、彼女の関心は棒剃刀から動くことができなくなっていた。
 サラは毎晩家に帰ってシャワーを浴びると、バスタオルで体をくるんだまま、何分も棒剃刀を見つめるようになった。

彼女は自分のしていることが以前の自分では考えられない、普通ではないことであることを頭ではわかっていた。

しかし気分の方がどうしても固着して動こうとしないのであった。

そのうち彼女は棒剃刀をハンドタオルにくるんで、ハンドバッグに入れて持ち歩くようになった。

彼女が外で心が不安でいっぱいになった時にはそっとハンドバッグの中の棒剃刀をハンドタオルの上から確認すると、幾分は落ち着くことができた。

もしもその刃物で自分の体を切り裂いたならば、すぐに人目に触れないように病院に送り込まれて治療されるだろう。

治療が奏功しなければ、自分がいつも掃除をしながら見ているとおりの形に整えられて、黒い車で運び出されるであろう。

管理されて生きることへのわたしの反抗は、こうして隠蔽されるだろう……

彼女はそう想像すると、虚しさと共に、自分の体の奥底にじんじんとした響きが執拗に繰り返すのを覚えた。

 刃物を手に取ればその一瞬は虹色の幻が立つけれども、結局七色はいつの間にか灰色に溶けてゆくのであった。

 彼女にとって「消化試合」という言葉が自分の人生をぴったり言い表していると思った。

ただ日程をこなすためだけの試合。

日常から逸脱しないよい子のまま、なるべく病気もけがも最小限にして、できるだけ無事な心身を最期の時まで運搬すること。

そのことが自分の生きている唯一の意味のように思った。

……自分の中であの世とこの世との綱引きがあって、その二つの力が刃物という一点で釣り合っているのだ。

釣り合っているからこそ、自分はこの一点にくぎ付けになって、存在し得ているのだ。

そしてこの釣り合いの一点が、もう少しあの世に方に近い場所であったならば、自分は自分を保つために自分で肌を切り裂いているだろう。

この釣り合いの一点の場所は、自分が勝手に定めることのできるものではなく、いわばひとつの事故として定まったというほかない……

サラがそのような考えに至ったとき、彼女は駅で亡くなった少女のことが少しわかるような気がした。

……あの少女にとって綱引きの釣り合いの一点が、あの世の方にうんと近いところに止まったのにちがいない……

 サラは、その晩夢の中で、つぎのような声を聞いた。

「どうやら、わかってきたようね。わたしが見込んだ通り、あなたには死んだ人の気持ちがわかる特別な才能があるの。あなたの周りに起こっていることは、才能を開くために必要なことばかりだったの。誰にでもできることではないわ。これがあなたの運命です。」

 サラは目が覚めると、その声の主は前に駅での事故に遭遇した晩の夢で聞いた少女の声のようでもあり、自分の声のようでもある、と思った。



   第三章


 サラは自分の心の不安を家族に打ち明けることはなかった。

彼女は小さいころから親のいうことをよく聞くすなおな子であり続けていた。

だから彼女は家族のいい子であり続けようと、最近の心の状態を隠して、それまでと変わらないように振舞った。

しかしそれは彼女にとって次第に苦痛となってきた。

彼女はなるべく家族と一緒の時間を短いものにするため、用事がなくても家の外に出かけるようにした。

 それで休みの日中に二時間ほどの散歩に出かけるのが習慣になった。

自宅を出ると、新興住宅地を通り抜け、生駒山の麓を南に下って行った。
 彼女がいつも立ち寄る場所があった。

それは、山の麓を分け入った場所にある、人の気配のない神社であった。

そこは正確には、かつては神道系の宗教団体の本部として使われていたらしい場所で、山道沿いに個人住宅ぐらいの大きさの木造の平屋があり、入り口は板で閉鎖されていた。

その平屋に隣接して、人が十人ほど入ればいっぱいになるぐらいの祠があった。

祠の前にはおびただしい数の陶器製の狐の像が奉納されていて、かつての宗教団体の隆盛を偲ばせた。

この祠を過ぎると山道の奥まったところに石窟があり、その中には二階建ての建物よりも少し高いぐらいの位置から水が落ちる滝があった。

石窟には、かつて水行に使ったらしい手桶が十数個積まれていて、いずれも朽ちかけていた。

 サラがこの場所を見つけたのは偶然のことで、宗教団体の敷地とは思わずに、山道をたどるうちにこの滝に行き着いたのであった。

彼女はこの滝の脇にある岩に腰かけて、十五分ばかり休息して、それから自宅へと引き返してゆくようになった。

 滝にはわずかではあるが水が絶えず流れて、滝つぼにしぶきをあげていた。

サラはこのしぶきを見ている時には自分の心が空っぽになって、しばらく不安から解放された。

人の気配のない石窟に独りぼっちでいることは、彼女は不思議と怖いとは思わなかった。

 彼女は滝に水を注ぐ水源を眺めた。

 それは灰色のビニールの管がすっぱりと斜めに切られたもので、その管の端から水が湧き出る様子にはまるで池の鯉が口を開けて呼吸しているようなリズムがあった。

 サラは水源を眺めるうちに、自分というものはこの管のようにからっぽのもので、普段自分と思っているものはそこから湧き出る水のようなものではないか、と思った。

 ……水は、湧き出る瞬間に管とは別物になる。管自体はつねにからっぽだ。

 自分は水の失われてゆくことが受け入れられないだけではないか?

 自分は管の方であって、水のほうではないのではないか?……

 彼女は、自分でもその論理性は確信できないまま、そのような言葉を脳裏に浮かべていた。

彼女はこれが瞑想ということなのかもしれない、と思った。


 初冬の小春日和の休日のことであった。

さすがに滝のある石窟は冷え冷えとしていた。

サラは岩に腰かけているうちに寒くなって、早々にそこを引き払った。

 彼女は石窟を出たところで一人の若い男と行き逢った。

彼女がここでほかの人に出会ったのは、初めてのことであった。

 その男は、年齢は三十少し前の様子で、痩せて手足が長く、細面で、ストレートの長髪を首筋で切りそろえていた。

彼の靴はタウンシューズで、周辺の山歩きの最中にこの石窟への道に迷い込んだわけではないことが見て取れた。

彼の手には、黒っぽい鞄が提げられていた。

 彼はすれ違うサラに軽く会釈すると、石窟の滝の脇にある、さっきまでサラが座っていた岩に腰を下ろした。

 サラはその男の様子が気になったが、声を掛けたりはしないで祠の前まで歩いてきたところで、振り返って石窟の方を眺めた。

 その男は、丁度さっきまでサラがやっていたのと同じように滝のしぶきをじっと眺めていた。

 サラはその男の様子が気にはなったが、足を止めないで家へと引き返した。

 サラが次にその男と出会ったのは、それから一か月ほど経った年末のことであった。

 彼女が滝の脇まで来て、いつものとおり岩に腰をかけたところで、その男がそこに現われたのだった。

 サラは言った。

「あっ、すぐにここ、空けますから」

 男は言った。

「いえ、あなたもここに来られたばかりでしょう?僕は向こうの祠の前で待っています」

「本当に、いいんです。私は特に用事があって来ているわけではないんです」

 サラはそう言って岩から腰を上げた。

「僕も特に用事なんか、ないんです。あなたは前もここでお見掛けしましたが、お祈りに来られていると思っていました」

「お祈り?」

「ここは、もう今は亡くなったらしいですが、ここの神社の代表だった巫女の方が滝行を

して祈る場所だったらしいです」

「じゃあ、聖地、ということになるんですね」

「ええ、ここの神社の信者さんはそう言っていました」

「あなたも信者さん?」

「いいえ、僕はたまたまここに迷い込んだことがあって、それから気に入って、時々来ているんです。」

「じゃあ、わたしと同じですね」

 男は寂しげに笑った。

「僕はお祈りでないんですけれど、ここに来ると……いや、この話はよしましょう」

 サラは、男の鞄に、その年齢の男の趣味にしてはやや似つかわしくない、緑色の子熊のぬいぐるみが提げられているのに気が付いた。

 サラは、そのぬいぐるみをどこかで見たことのあるような気がした。

彼女は記憶をたどった。

間もなく、それが先日人身事故のあった駅のベンチに残されていた紺色の鞄に提げられていたものとよく似ていることに思い当たり、はっとした。

 サラは思わず尋ねた。

「あの、そのぬいぐるみ……」、

 男はまた寂しげな笑い顔になって言った。

「ああ、これは、僕の宝物みたいなものです」

「宝物?」

「そうです。ある人とペアで買ったのですが、その人はいなくなってしまったんです」

 サラは驚いた表情で言った。

「もしかして、その人って、ひょっとして、あの……駅でこの間……」

 男の顔色がさっと変わった。

「カレンさんのことを、あなたは知っているんですか?」

「あの人はカレンさんという名前だったんですか……」

「僕は、カレンさんに、ピアノ教室でピアノを教えていました。彼女が自殺したのは、まったく、僕のせいなのです」

「わたしはあの事故のすぐ後に駅に着いて、そこで残った鞄についたぬいぐるみを見たんです」

「やっぱり、ここは不思議なことの起きる場所だなあ……」

「不思議、といいますと?」

「ここは、この神社を開いた巫女さんが、滝に打たれながら、神様のご託宣を預かる場所で、巫女さんは死んだ人とも会話できたらしいんです。僕がここに初めて来たのは偶然だったんだけれど、調べたらそういうことだったんです」

「あなたはここでカレンさんと話をするつもりで、いつも来られているんですね?」

「そうです」

「それで、お願いがあるんですが……」

「なんでしょうか?」

「カレンさんのこと、どんな方だったのか、教えてほしいんです。ずっとどういう方だったのか、気になっているんです」

 男はしばらく黙って考えている様子であったが、やがて小さなため息をついてから、答えた。

「あなたは興味本位でなく、本当に知りたいと思っておられるのですね。わかりました。こんど僕のピアノ教室に来ていただければ、それまでに話を整理しておきます。これが僕の名刺です」

 名刺には、ホリグチ・ヒサシという名前と、ピアノ教室の住所が書かれていた。

 サラは言った。

「すみません、唐突にこんなお願いをしてしまって。つらいことを思い出させてしまうのであれば、遠慮します」

「いいえ、気になされないでください。今となっては、誰かに話をお聞きいただきたい気持ちなのです」

「では来週、事前にご連絡してから、うかがうようにします。あっ、わたしはサラと言います」

「サラさん、ですね。ご連絡お待ちしています」


 サラはピアノ教師のホリグチと滝の前で別れてからしばらくその滝のある神域に留まった。

 いつもは見過ごしていたが、祠の庇の下にこの宗教団体のパンフレットが置かれているのを読んでみる気になった。

 数ページの藁半紙のパンフレットは庇の下とはいえ外気にさらされた場所に置かれて何年も経ったものらしく、紙は黄ばんでいた。

彼女は十数部重ねてあるパンフレットの一つを手に取って読むと、概ねつぎのようなことが書かれていた。


 ……この神域は極星教会という神道系の宗教団体の聖地である。そもそも極星会を始めたヤマネ・リョウは、明治末年に近郷の農家に生まれ十七で同村の大工の後妻に入り、子供も六人儲けた。夫が工事現場の事故で早世してから、夢告を受けてこの滝で水垢離をとるようになった。リョウはある月食の晩、水垢離の最中に極星の神を感得し、いろいろ不思議な言葉を預かって親しい人に告げた。告げられた人がその言葉に従うと、病気が治ったり、金策がついたりするというので、自ずとその噂を聞きつけた信者が集まり、小さいながらも宗教団体を起こすに至った。リョウは普段は静かな寡婦であったが、神前で祈祷すると全く堂々たる神霊として朗々と語り出し、祈祷が終わるとリョウは神霊の言葉を信者が己の状況に照らしてどう受け取ったかを詳しく聞き取り、そして今度はリョウ個人としてその信者の悩みに即し神霊の言葉の解釈を静かに語った。リョウは先年逝去し、リョウの三女が現在の教主である……

 現在の神域には人の気配がなく、サラは信者らしい人も見かけたことがなかった。

彼女はいろいろな奇瑞は教祖のリョウの一代だけのことだったのかもしれないと想像した。

 彼女は、奇瑞云々はともかくとして、リョウという人が目に見えないものから何かを聞き取っていたというところは、共感が持てるような気がした。

 そして、この滝のある神域は、目に見えないものの力が働くのにはふさわしい場所だと思った。

少なくとも、目に見えるものだけを信じる人は、手入れのされていない雑草だらけの敷地や苔むした石窟やその奥にある冷え冷えとした滝には、不気味と思って近寄らないであろう、と思った。

 サラが神域の門を出る時、一羽の烏が彼女の頭のすぐ上をはばたいて過ぎた。

そのはばたく羽の送った風が彼女の脳天に届き、彼女は思わず頭を両手で抑えた。

彼女は滝のある神域を出るとアルバイト先の病院に向かい、定められたシフトの清掃作業に入った。

 その晩の霊安室には遺体はなく、サラは決められたとおりの清掃を手早く片付けて、折りたたみのスチール椅子を一脚広げてそこに座った。

 病院は夜間も暖房が焚かれていたが、その部屋は底冷えがして、彼女はスチール椅子のビニールを冷たく感じた。

 彼女は持参している水筒に入った、清掃の前に給湯室で汲んだ白湯を飲みながら、昼間滝であったできごとを思い出した。

 彼女は滝のまわりに漂う空気がどこかこの霊安室に似ていると思った。

 どちらもひんやりとしていて、ゾクっと寒気を感じるところは同じだと思った。

 彼女は、それにしても自分がほかの人ならばきっと気味悪がるような殺風景な部屋が自分の居場所になっていることを不思議に思った。

 そしてこの居場所が、最近のもうひとつの居場所、つまり例の滝の前と似ていると感じた。

 彼女には、その共通点は自分と死んだ人との交差する場所ということのように思えた。

 すでに彼女によって、死んだ人はおそろしい幽霊などではなかった。

幽霊というものがもしも居るとしても、それは元々生きていた人であり、生きていた時とそれほど大きく異なるものではない、むしろ肉体がない分だけ自分と極めて間近に会話できるはずだ。

……自分が死んだ人と会話しているというのは、自分の想像の中の話かもしれない。

そう割り切ることは簡単だが、そういう想像をすること自体が実は会話だと考えることもできる。

あの滝で死者と会話したという巫女は、あながち荒唐無稽な作り事で世の中の人をたぶらかしたとは言えない。

自分と同じような想像をしていたのだ。

死者と会話していると純粋に信じていたのだ。

だからその言葉が死者の言葉であると生きている人に信じられたのだ。

 自分は別に白い光とか紫の雲とか、芝居にあるみたいなビジョンを見ることはない。

ただ口を真一文字に結んで黙って、白い布の下の人の言葉に耳を傾けると、心の中で死者の声が聞こえるのだ。

ここに安置された遺体が自分の言い残したいことを言う、ただそれを聞くだけだ。

そして、耳を傾けることは、なぜだかわからないが、自分がしなくてはならないことなのだ。

 死者の言葉はいずれも一言二言の短いもので、多くは残された家族の心配だ。

「下着は箪笥の下から三番目の抽斗、夏物も冬物もそん中や。」

「通帳は三冊だけやけど、印鑑が別々や。」

 耳を傾けると、そういった呟きが聞こえる。

 自分は聞こえたことを遺族に伝えようかと思ったこともあったが、ただ自分の想像の中の話かもしれないし、遺族が気持ち悪く思うだろうと想像して、今まで伝えたことはない。

 病死という死に方は自他に恨みを残す死に方ではないので、たいていは一言二言で言い残したいことが尽きるのだと思う。

病苦から解放された安心の中で、なおも言い残したいことは多くはないのだろう。

もっともそれは自分の想像の中の話だとすれば、自分に想像力がないだけかもしれないが。

 自殺や他殺で死んだ人はそういうわけにはゆかない。

 そういう変死の遺体は、たとえば幼少の時に親から言うことを聞かないと少年院に入れると脅されて育ったことや、結婚相手が結婚して間もなく豹変して自分に暴力を振るうようになったことなど、自分が死ぬに至った遠因をぶつぶつと呟くのだ。

自分はたまたま激情が未練になって自分に訴えかけるような遺体に直面したことがないだけかもしれない。

 自分は遺体の言い残しの聞き役になる運命なのだ。

たぶん聞いてあげさえすればよいのだ。

何か返答することも、何か行動することも必要はないのだ。

人間は聞いてもらうということがとても大事で、話の内容も、話に従った他人の行動も、本当のところはさして大事ではないのだ。

そしてそれは生きている人でも同じことなのだ。

黙って聞いてあげる、それが自分の役回りなのだ。

あの滝のある神域を開いた巫女のリョウは託宣をしたというが、自分は聞いたことを口にすることはない。

しかしそのうちに、自分が何か通訳して言わなくてはならない日が来るかもしれない……

こうしてサラはスチール椅子に座って、白いタイル張りの床を見ながらぼんやりと考え続けた。

彼女は白い床を見るうちに、帰宅したら久しぶりに絵筆を執って絵を描いてみたいと思った。

彼女は具体的な形態と全く関係なく、輪郭線をもたない色彩の複数の塊で構成することを考えた。

自分が聞いたことを言葉にしないかわりに、それを色彩に表現してみようと思った。

その時、彼女は窓も開いていないのに滝の前にいるように冷風が自分の頬をよぎるのを感じた。



   第四章


 サラは翌週の土曜日の午後、滝の前で出会ったホリグチのピアノ教室を訪ねた。

 教室はサラが通学に使っている最寄り駅に近い、二階建ての店舗ビルの二階にあった。

 サラが教室の前に立つと、中からベートーベンの悲愴ソナタの第二楽章が聞こえた。

 彼女が扉を開けるとソナタは中断し、ホリグチが迎えに出てきた。

教室には白いグランドピアノが一台置かれていて、窓に近い場所に生徒が順番を待つソファーと楽譜の書棚があった。

「こんにちは、サラさん。よくおいでになりました。」

「こんにちは、ホリグチ先生。少し早く着いてしまって申し訳ありません。」

 ホリグチはサラにソファーに座るよう勧め、自分はピアノの椅子をソファーの前に抱えて来て座った。

 彼はカモミールのハーブティーを淹れた。

「僕はカレンさんのことを、まとめて話せる気分にやっとなれました。サラさんとあの滝の前で会ったのも、何かの引き合わせのような気がします。」

 ホリグチはそう切り出すと、話を始めた。

 カレンはホリグチのピアノ教室の生徒であった。

もともとは別のピアノ教室に通っていたのだが、彼女は上達が早かった。

カレンが中学三年になった時に、音楽の方面での将来を期待した彼女の両親が、上級者へのレッスンができるホリグチの教室を探し出した。

それで彼女はそれからホリグチのレッスンを受けるようになった。

 レッスンは木曜日の夕方五時から一時間、五週目は休み、というスケジュールだった。

 ホリグチの教室では特に十九世紀前半ごろまでの楽譜には必ずしも明記のないペダルの使い方を丁寧に教えた。

 カレンの演奏は華奢な印象の体形からは想像しがたいほどのメロディーの抑揚の豊かなもので、男性的ともいえる雄大な弾きぶりであった。

ホリグチはその演奏の良さはモーツアルトよりもベートーベンの楽曲に表れると思った。

 ホリグチは無口な性質であり、生徒とはレッスンで必要なこと以外はほとんど話すことはなかった。

 ホリグチとカレンも、彼女が通い出して一年ほどは雑談をすることはほとんどなかった。

しかしカレンが高校に入ってから音楽大学についてホリグチに尋ねたのをきっかけに、ホリグチは学生時代の話をするようになった。

 ホリグチの学生時代といっても、彼はピアノの前で弾いている時間が長く、少数の友人とたまにお茶を飲んだり、コンサートに出かけたりという生活であった。

彼はカレンに、大学のあった東京の桜木や谷中あたりの話をした。

そしてたとえば、桜木の徳川時代からの古刹の並ぶ細い路地の奥に元は骨董屋だったお気に入りのカフェがあったこと、時々その店の隅のピアノを弾くと常連らしいお客さんが感想を言ってくれたこと、それがとても勉強になったこと、などを語った。

 カレンも少しずつ自分の話をするようになった。

彼女は父親の海外赴任に伴い、小学校の四年生から三年間カナダに住んでいたこと、カナダの学校では先生も生徒も外国人の自分をよそ者扱いしないで寛容に受け入れてくれたこと、などを話した。

彼女は日本に戻って中学校に通い始めてからの話はあまりしなかった。

ホリグチは彼女が中学校の生活をあまり楽しめていなかったのだろうと推察した。

彼はカレンが毎日何時間もピアノの練習をするようになったのが中学に入ってからであることと、その推察とが平仄が合っていると思った。

 カレンが高校二年生になったある初夏の日のことであった。

 レッスンの後、彼女が言った。

「ホリグチ先生は京都のご出身ですよね。それでお願いがあるんですが、わたしは京都で行きたいところがあるんですけれど、もしもよろしければ、休みの日にいっしょについてきていただくわけには、いかないでしょうか?」

 ホリグチは、生徒から個人的な頼み事をされるのは初めてであった。

「京都ですか……お友達でお詳しい方、いるんじゃないですか?おうちの方はどうですか?」

「わたし、友達なんて、いません。それに、両親は忙しくて、ほとんど口をききませんから」

 ホリグチはカレンの言葉が氷の刃のようにひやりと心臓に触れた気がした。

「行きたいところって、京都のどのあたりですか?」

「三条大橋の近くらしいんですが、古本の店です。一度そのお店に行ってみたいと思っていたんです」

 ホリグチは少し考えてから答えた。

「いいでしょう。レッスンのない日曜日にご一緒しましょう。」

 カレンはうれしそうな表情で、感謝の言葉を述べた。

 それから十日ほど経った日曜日の早朝、カレンはホリグチと駅で待ち合わせ、電車を乗り継いて京都に向かった。

 その日は朝から梅雨空であった。

 行きの車中ではカレンは珍しく饒舌で、自分の通う女子高校の話をした。

 彼女は自分は学校でいじめられてはいないが、孤立しているのだ、と言った。

 クラスに自己主張が強くて容姿がよいのを鼻にかけている女子生徒がいて、クラスの雰囲気はその子が引っ張り回している、カレンがその子のペースにいつも巻き込まれないで距離を置いているのが気に食わないらしくて、カレンが何か話そうとすると皆まで聞かないで自分の言葉を重ねてくるのがいやだ、と話した。

 ホリグチはカレンの話に頷きながら、もっぱら聞き役に回った。

 カレンは話が途切れたときに、ふとつぎのような独り言を呟いた。

「みんな同じがいいんだったら、校則で雨傘は赤と決めればいいんだわ。そうしたら下校の時には、赤い花が何百も咲いたように見えて、きれいだと思う。」 

 ホリグチはその言葉がなぜか印象に残った。

彼はカレンが学校の中では独りぼっちで、まわりの生徒とは関係がとり結べず、ただ彼女たちを俯瞰するように眺めているのであろうと想像した。

 雨のそぼ降る中、三条大橋の西詰のそばの古本屋はすぐに見つかった。

 古い町屋を改造した狭い間口に奥行きの深い店で、二人は三十分ほど本を探した。

 カレンはドイツ語の絵本を二冊、ホリグチはインド哲学者の松山俊太郎の本を一冊購入した。

 店のレジの脇にマスコットとして鞄にとりつけられるように紐のついた、緑色の子熊のぬいぐるみがいくつか並んでいた。

 ホリグチは、

「これ、二つ買って、一つはカレンさんにあげたいんだけれど、いいかな?」

とカレンに尋ねた。

 カレンは無言で頷いたので、ホリグチはそれを二つ買って、一つをカレンに渡した。

 二人は店を出て傘をさした。

 ホリグチは言った。

「このお店、案外わかりやすいところにあって、よかったね」

 カレンはホリグチの方には顔を向けず、まっすぐ歩く先を見ながら言った。

「わたし、ほんとうのことを言うと、ホリグチ先生と、お話がしたくて、ごいっしょをお願いしたんです。もう少し、いいですか?」

 カレンは京都は不案内と言っていたわりには確かな足取りで、鴨川に平行する高瀬川の水路に沿った通りを北に折れた。

 カレンは傘の下で、顔をまっすぐ前に向けたまま、尋ねた。

「先生、わたしのこと、女性として、どうご覧になっているんですか?」

「女性として、というと?」

「先生は、女の人を好きになったことはないの?」

 ホリグチは、答えに詰まった。

「ピアノの教師だって教師のはしくれだよ。生徒さんは、どこまでも生徒さんです」

 カレンはその言葉に歩みを止めて、ホリグチに顔を向けた。

「それは、わたしがかわいくないからなんでしょう?」

 ホリグチは実のところレッスンのたびに、カレンの華奢な肩と腰まで及ぶ長い栗色の髪を見て、幾度心が動いたか知れなかった。

しかし彼の教師としての良心は、その衝動を強く抑え込んだ。

「生徒さんは、あくまで生徒さんです。今日だって、カレンさんの勉強の手伝いと思って、京都まで付き添いました。二人で出かけること自体、あなたのご両親に知れたら、叱られんじゃないかと思ったけれど、カレンさんがおうちでも独りぼっちだと言うから……」

「それでしかたなく付いてきた、そういうことなんですね。」

「ううん、カレンさんといっしょに出かけるのは、すごく楽しみにしていたんだよ」

「ごめんなさい、わたし、無理なことを訊いているのかしら?でも、先生には知ってもらいたい。わたしの演奏はいつも先生にひとりの人として聞いてもらうために……そのために弾いているの」

 ホリグチはその言葉に思い当たるものがあった。

彼はレッスンの時、彼女の演奏するメロディーの息遣いにしばしば自分の心が共振しているのを感じていた。

彼はいつもそれを彼女の芸術表現の特徴と理解しようとしていた。

しかし同時に、そのような理解では解決しない不思議な感覚が体の中に残るのを感じていた。

 彼は本当はカレンにこう答えたかった。

「カレンさん、やっとわかったよ、そうだったんだね……」

 しかし彼はこの言葉を無理やり喉の奥に飲み込んだ。

 ホリグチは女性との恋愛の経験はなかった。

彼にとって恋人はピアノであり、音楽であった。

女性と親しく話をしたこともなかった。

だからカレンにどう言葉を返せばいいのかわからなかった。

 ホリグチは沈黙を破ってぎこちなく答えた。

「僕の恋人はピアノです。女の人のことは、正直、よくわからない。話をしたこともあんまりないんです」

「ほかの女の人のことなんて、どうでもいいんです。わたし、かわいくないですか?」

 ホリグチは答える言葉を見つけることができなかった。

長い沈黙の続いた後、カレンは言った。

「ごめんなさい、やっぱり無理なことを訊いちゃったみたいです。わたしが勝手に思い込んでいただけでした。独りで帰れますから、先に帰ります。ぬいぐるみ、大切にします。今日はどうもありがとうございました」

 カレンはそう言い終えると、くるりと向きを変えて、三条の電車の駅に向けて歩いて行った。

 ホリグチはかける言葉もなく、ただ呆然とカレンの後ろ姿を見送った。

 それがホリグチとカレンとの永訣となった。


「サラさん、だから、カレンさんが死んだのは、僕のせいだと思うんです」

 ホリグチは悲しそうな眼を一口もつけていないハーブティーの薄緑の液体に映すようにしながら、そう言って自分の話をしめくくった。

 サラは自分の後ろに何か力強い誰かがいて、自分の肩を押しているように感じた。

彼女は自分でも驚くほど明快な口調でこう言った。

「ホリグチ先生のせいではないと思います。」

「僕は教師として、私情を交えてはいけない、と思っていたんです。でも、それは今思うと、僕の保身のためだったように思うのです。」

「カレンさんは、ホリグチ先生から嫌われたと思ったのではないと思います。この世の最後の思い出を、ホリグチ先生と作れれば、それでよかったんです」

「サラさんは、どうしてそう思うの?」

「私も恋愛経験はないんですが、男の人が答えにつまっているうちに、背中を向けて帰ったりしないと思うんです。むしろ、先生のお気持ちをはっきり聞いてしまわないように、急いで帰って行ったのだと思います」

「よくわからないんだけど……」

「京都に一緒に行った、その思い出だけでよかったんです。」

「カレンさんは、京都に行く前から、死ぬつもりだった……サラさんはそう言っておられるのですね?」

「そうです。カレンさんの気持ちが自分にはわかるんです。生きたくても生きようがなかったんです」

 ホリグチとサラとの間で、しばらく沈黙が続いた。

 ホリグチが口を開いた。

「サラさんがおっしゃること、たぶん正しいです。実は、カレンさんがなくなった次の日に、僕にカレンさんの送った手紙が着いたんです。これは誰にも見せるつもりはなかったのですが、サラさんにはお見せします」

 ホリグチは席を立って、サラと滝の傍で会った時にも持っていた鞄の中から封筒を取り出した。

「サラさん、どうぞお読みください。」

 封筒の中には、桜色の便箋に、つぎのように書いた手紙が封入してあった。


「先生、先日は京都にご一緒いただいて、ありがとうございました。前から行きたかった本屋を訪ねることができて、とてもうれしいです。散歩の途中で帰ってしまって、ごめんなさい。なぜ帰ってしまったのか、お伝えしておきたくて、この手紙を書きました。

 私は決して先生のお気持ちを試してみたのではないのです。

 ただ、自分が男の人にはどう見えるのか、知りたかったのは確かです。

 先生のお気持ちはレッスンの時に気が付いていました。私が演奏している最中に、時々、私の横顔を眺めておられました。そして、私の弾くメロディーに合わせているふりをしながら、ゆっくり顔をそむけておられました。ご自分の感情を自制されていたのがわかりました。

 ですから、京都で、もしも先生が私のことを受け入れるとおっしゃったらば、どうしようかと内心で心配していたぐらいなのです。もしもそうおっしゃったらば、私は先生を独り残して旅に出る決心が鈍るからです。でも、私は、先生が教師としての自制を貫く人だと信じていました。それに、先生はピアノ以外のことはほとんどご存知ないのだから、女性に向けて一歩踏み出すには、それ相当の心準備が必要なはずで、急に決心されることはないだろうと勝手に想像していたのです。

 それで予想が当たって、安心したので、帰ることにしたのです。びっくりされたかもしれません。けっして先生のことを嫌いになったりしたのではないのです。

 はっきり言うと、先生と私との間には、何もなかった、そういうことにしたかったのです。

 そうでないと、旅立ちの後に先生にご迷惑がかかります。

 私が旅立つことにしたのは、疲れたから、それだけが理由です。

 大きくなるにつれて、ものごとは自分の思い通りにはゆかなくなります。親は私の進路を中学か高校の音楽の先生と決めてしまっています。音楽は大好きですが、それと職業とは別問題で、進路は自分で決めたかったです。学校では仲間ができません。無視は慣れましたが、つらさが心に溜ってきました。話し合えばいいんじゃない、という人は多いけれど、話し合いなんて、いったいどこにあるというのでしょう?ああ、そうか、それならカレンの言うことを聞こうか、という話になったことは一度もありません。私の方でしわ寄せを引き受けないと済まない仕組みになっているんです。そうして自分がなくなってゆくことが、耐えられないのです。

 私は自分が牢獄に閉じ込められているように感じています。私は罰として自分を牢獄に入れているのです。牢獄から出たい。出られるのならば何でもします。つらい。でも自分が決めたことです。私は自分の王だからです。自分を罰するから王なのです。

 正直に言います。私は完全無欠です。たしかに私はかわいげがないし、ユーモアはわからないし、ただの革の袋なのです。でも完全無欠です。いわれなき誹謗、中傷、それは私に何の傷ももたらしたりはしない。私に指一本触れられはしない。だから、完全無欠な私は、私が責任をもって処罰します。私は私の王です。そのほかに王などいない。私は私を処罰することによって私なのです。罪もないのに茨の道を歩んでいます。おわかりになりますか?

病院にも通いました。医師は私の話はほとんど聞かないで、人間は誰でも一度は必ず死ぬんだから死に急ぐことはない、と言いました。そして大量の薬を処方するようになりました。薬を飲めば一時的に楽になります。でも、躁鬱の繰り返しで、ジェットコースターに乗せられているみたいです。ふらふらです。

 医師の言ったことは正しいです。誰でも一度は死ぬんだから、早く死んだって同じことだと受け止めました。世の中の人は他人をそういうふうにみていることがよくわかりました。

私はつらさに耐えられるまで耐えました。もう旅立たなくてはならないのです。罰が足りないのです。牢獄から次の段階に進めて、なすべきことをなしたい。それで一刻も早く空に帰りたいのです。

今から、みなさんは普段見ないようにしているものを目にされるでしょう。みなさんには、きちんとお洋服を着て、きれいにお料理して、見ないようにしているものがあります。世の中を利口そうに嘆きながら、見ないようにしているものがあります。私には、それが見えます。混沌と放恣と、肉食と咆哮と、力と依存と、男と女と、絶頂と失神と、そして死と誕生と。私には秩序と混沌との区別がありません。みなさんが見ている世界と見ないようにしている世界とは、私の住んでいる世界では区別なく混じり合っています。私はなぜかみなさんと違って、生まれつき自分の体を守る洋服を持ち合わせないのです。みなさんはこれから、私の肉体を通して、普段見ないようにしているものをご覧になる機会を与えられるのです。

 ベートーベンの悲愴ソナタ、先生の教えのとおりのペダリングで弾いてから旅立ちます。悲愴ソナタが終わった時、最後の救いが下ります。

 今までどうもありがとうございました。お幸せに。


私がこの世でただ一人、愛せそうだった方へ」


 サラは、病院で遺体のハンカチの下の顔を見たときと同じように、ひたすら冷静に凝視するように、手紙を繰り返して読んだ。

それは、自分の感情の奔流を意識しないで済ませるためでもあり、感情に乱されないでカレンと対話をしたいからでもあった。

 サラは言った。

「カレンさんは自分を罰することで自分をなんとか保っていたかったのだと思います。だから死を選んだのです。あまりにかわいそうです」

「僕は人の心理というものはよくわからないんだ。わかるのは、この手紙に込められた感情の印象だけです。僕が感じたのは、あんなに感情の起伏のある演奏をしていた人が書いたとは思えないもの……あえて言えば、静けさ、です」

「静けさ、わかります」

 サラは自分の冷静さとカレンの手紙の静けさとがぴったりと重なって、通じ合うものを感じた。

 ホリグチは悲しそうな縦皺を眉間に寄せて、続けた。

「僕はこの一件は、カレンさんが決めたというよりも、そういう運命だったのだと思いたい。すべては運命だ、そう思うことで、自分を責めることから逃げたいのです」

 サラは、断定するようなはっきりした口調で言った。

「先生にはご自分を責める理由は何もありません」

 ホリグチは眉間に寄せた皺を少し開いた。

 しばらく沈黙が続いてから、ホリグチが再び口を開いた。

「サラさんが、自分を保つために、とおっしゃる意味が、よくわからないのです」

「自分を救うために、と言い換えたら、どうかしら?」

「死んでしまったら、救うことにならないんじゃないですか?」

「救いに賭けたのです。そういう答えを出す運命だったのです」

「答えを出す運命、ですか……」

「生きている世界全体が自分に向かって崩れてくる時、自分まで崩れてしまわないためにそういう答えを出さざるをえなかったのだと思います」

 ホリグチは俯き加減の顔を少し上げて、言った。

「世界は一刻も同じ状態にはとどまっていません。自分に向かって崩れてくる、その感覚はわかります。僕はピアノを弾くことで、それをしのいでいるのかもしれない。音楽の表現が救いになることを祈っている、そういう気持ちはいつも自分にはあります」

 サラは少し考えてから、言葉を続けた。

「カレンさんの心には、たぶん人生の早い段階に悲しい事故が起こってしまったのです。現実というものについて、なんとか見当をつけて折り合ってゆくためには、現実を読み解く必要があって、そのためには言葉というものを信じなければならないと思います。それが信じられないのであれば、先生のように、音楽による表現で世界の崩落をつなぎ留めるという道もあるでしょう。でも、カレンさんにはそういう道がなかったのです。私は現実とはこういうものだ、いいことも、悪いことも、いろんなことがあると言葉で説明をつけて生き続けています。カレンさんは、たぶん、いいことも、悪いことも、いろんなことがあるとは思えなかったのです。ただ自分を罰することによって自分を支えていたのです。」

 サラはこのように話しながら、自分が刃物に固着しているのは、現実に対して諦めをつけようとすることに自分の心が異議を申し立てているのだ、自分はカレンのように純粋ではない、だから何とか死を回避して現実と折り合いをつけようとしているのだ、と思った。

そして、それが自分の在り方であればそれでいたしかたない、とも思った。

 ホリグチが言った。

「今になって、僕はカレンさんに言ってあげるべきだったと思うことがあります。自分というものはからっぽで、からっぽの自分がたえず泉のように水を湧き出していて、人間は湧き出したものを自分だと思い込んでいるだけなんだ。だから、自分に罪があるということはないんだ……こんな話です。このところ仏教やインド哲学の本を読んで思いついた、後知恵です。」

「先生の泉のお話、わたしもこの間、あの滝の傍で同じことを思いました。私たち人間には世界の真実はたぶんわかりません。人間にできるのは、ものごとに何となく見当をつけるところまでだと思います。でも、本当は、人間とは、からっぽなんだと思います。からっぽだからこそ、迷うのです。からっぽは、それだけではからっぽでいられないから。からっぽだからこそ迷うのです。先生のお話を聞くと、やはりご自分を責めておられるのだと思います。それはカレンさんが望まれたことではないはずです」

 ホリグチは頷いた。

「サラさんと出会えてよかったです。気持ちが少しだけ軽くなったようです」

「実は私も、何もわかっていないのに、こんなにたくさんのお話をしたことを不思議に思っています」

 サラはこう答えながら、夢でカレンらしい少女が自分に告げたように、自分が死んだ人の気持ちが生きた人の気持ちにもまして実感をもってわかるようになったからだ、と思った。っ

 ……死者は音声で言葉を語らず、またこちらからの言葉を聞くことがない。

サラは、ただ黙って死者の語る声を聞いてきた。

口は真一文字に綴じて、心の耳だけを開いて死者と対座してきた。

サラはそれは独り芝居ではない、およそ他者を理解するということは自分の言葉で理解するほかにはないのだ。

 今では自分が聞き役に徹するだけでなく、聞いた言葉をホリグチに伝える役目を果たしたのだ。

滝の神域の巫女であったリョウのように託宣を語るわけではないが、聞いた言葉を翻訳して話していることは間違いない……

それとともに、自分の心の均衡点はカレンとはちょっとだけずれていて、それが自罰の具体的な執行には至らずに済ませていることを、何者かに感謝したくなった。

 そしてサラは、カレンがこの世に存在しなくなってできた空虚を、自分という空虚に重ねて受け止めた。

彼女は、この空虚を涙の果てに広がる純粋の悲しみとして感じた。

 ホリグチはサラに言った。

「僕の気持ち、サラさんのお話で多少軽くなりました。お時間がよろしければ、お帰りになる前に僕の演奏を聞いていただけませんか?」

 サラは頷いた。

 ホリグチはピアノの前に座って言った。

「ベートーベンのソナタ三十番を弾きます。」

 ホリグチは演奏を始めた。

 サラは、第一楽章の透明で簡潔な高低の音のやり取りから、解決しえない激しい情動に突如として変化する演奏に引き込まれた。そして第二楽章の寒風に立ち向かうような決然とした短調を経て、第三楽章でテーマがさまざまに変奏される様に聞き入った。

 彼女は、自分が聞き取った言葉をホリグチに伝えたのは、テーマの変奏のようなものかもしれないと思った。

そこには自分の想像や補完が入り混じって、元のテーマ通りではないが、それによって聞く人になんらかの救いになるのであればそれでよいはずだ、と思った。

 曲は長くトレモロを引く最後の変奏の後主題に再び戻って静かにフェルマータで閉じた。

演奏を終えたホリグチはひとつ深く息をついた。

サラには彼がわずかに微笑しているように見えた。

 サラは、自分の言葉がホリグチの気持ちに幾分か働きかけたことでカレンのことについて彼なりの受け入れができたのかもしれないと感じた。

 ホリグチは言った。

「カレンさんの件はいろいろ考えあぐねていたのですが、サラさんとお話して自分なりに受け止めてゆけそうな気がしてきました。どうもありがとう」

「私もお話して、カレンさんのことが多少わかった気がします」

 サラはそう言い切らないうちに、涙があふれてくるのを感じた。

彼女は声を抑えきれず、咽ぶように泣いた。

泣くことがカレンへの自分の追悼なのだ、それにここまで話してきてやっと生身の自分として泣くことができるようになったのだ、彼女はそう思った。

 しばらくして、サラが落ち着きを取り戻したところで、ホリグチがサラにやさしく言った。

「サラさん、カレンさんのために泣いてくれてありがとう。よろしければ、またこの教室を訪ねて来てくれませんか?カレンさんのことを思い出して、お話をいたしましょう」

 サラは答えた。

「ホリグチさんが元気になるのならば、また来ます。今度は二週間ぐらい後かな。たぶん、絵を描いて持ってきます」

 サラは赤くなった目に努めて微笑を浮かべて、ホリグチに別れを告げた。

 彼女は、自分にはホリグチを元気づける役目がまだ残っているのだ、ホリグチを独りで放っておくことはとてもできない、と思った。

 サラはホリグチに扉まで送られて、教室を後にした。

 いつのまにか街には霧雨が降り出していた。

サラは、窓の外に見える駅前の道が道行く人のさした色とりどりの傘で彩られるのを見て、カレンの言った「傘の花園」という言葉を思い出した。

サラは、学校のほかの生徒の傘がみんな赤なのに、カレンの傘だけはたぶん真っ白の傘だったのだと思った。

カレンの傘が白かったのは、まわりにも受け入れられず、本人も受け止めきれなかったからだ。

自分がカレンと同級生だったら、どのように振舞っただろうか?

カレンは本当に死ぬしかなかったのだろうか?

サラはこのように考えながらも、この問いには正解がないことを、傷が癒えないままで痛む心で受け取っていた。

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