台湾に関する雑感②ー日本の台湾植民地支配をどう考えるか(後編)ー
戴国輝による台湾植民地肯定論への批判についての考察記事になります。前編では後藤新平への評価に関する批判的考察をご紹介しました。後編では、司馬遼太郎の「台湾紀行」に関する批判的考察、植民地支配の問題点とは何かについての考察について、皆さんと一緒に考えて参りたいと思います。
戴国煇による批判的考察
司馬遼太郎「台湾紀行」への批判
戴は司馬遼太郎の「台湾紀行」での資料の引用、論理について次のように指摘する。
「司馬さんの論の立て方は非常に中立的で、ニュートラルで、それでいて引用している人々に対して、だれの悪口もいわないで、実にうまくつなげていく。私のことは台湾史の良識があるといって、その台湾史についての資料を彼はうまく使っているわけです。」
神奈川大学 人文学研究所/人文学会
その上で司馬が邱永漢の言葉を借りて、台湾が日本の植民地支配がなければ海南島のような状況になっていたと主張したことについて(※1)、次のように批判する。
日本が台湾を支配しなければ今日があったかどうかというのは、歴史上でのifの問題の立て方でナンセンスです。だけど、そういうように台湾の人がいい、日本人もいうから、多くの日本人はそれを受け入れてハッピーなんです。(略)
ところが、社会科学の論理としては、植民地支配を我々がもう一回肯定できるのかといえば、できないと思います。日本だって植民地支配を受けたくないと思うんです。植民地支配というのは人間を大変スポイルするし、人間を侮蔑するメカニズムです。それを、結果論として、台湾の人がそういっているからといって、司馬さんは最後に、とても台湾の将来は心配だという。僕なんかからみれば、余計なお世話なんです。そんなのやめなさい。
また、戴は司馬が台湾でインタビューを行った現地の人たちは日本語ができる人(筆者注:日本の植民地時代に教育を受けて、郷愁を感じている台湾人など)だが、植民地支配、軍事支配で近代化ができたという論理を楽しむ日本人は尊敬されず、甘えすぎていると指摘する。(※2)
戴が婉曲的に指摘する、司馬が自身に都合のいい資料だけを引用する形で台湾植民地支配を肯定(礼賛)する様子は、戴が引用した鶴見祐輔の「後藤新平」について、司馬が次のように評していることからわかる。ここからは戴の主張が、決して「親」日と一線を画す台湾人の見解といった見解や価値観の違いとは言えないことがわかる。
後年、後藤新平が児玉を追慕する述懐を、鶴見祐輔の『後藤新平』第2巻のなかでのべている。
「児玉さんは実にえらい人だった。新総督の統治の方針は無方針、という俺の意見を、即座に理解して、それを終いまで貫いたからね」
児玉の生涯は、54年でしかなかった。
日露戦争では、作戦案ができるごとに薄氷を踏む思いだったのか、朝日を毎朝拝んでいたという。戦争が終った翌年(明治39=1906年)、精根が尽きたようにして死んだ。(原文では数字は漢数字。カッコ内は原文ママ。)
戴と同じ文献を読んでいるはずの司馬だが、戴が紹介した児玉、後藤が行っただまし討ち(※3)については、司馬の関心の外にあったか、故人となった今ではわからない。
植民地支配で「奪われた」者の痛み
14歳まで日本の植民地支配とその教育を受けてきた戴は、植民地支配による教育の問題性について次のように指摘する。
「日本によるいわゆる「近代」教育は、なるほど我々の文盲率を低めてくれた。しかしわれわれはこの恩恵?を遥かにしのぐ代償を払わされた。言語の二元性という強いられた言語生活がそれである。(略)日本語を外から押し付け、われわれ自身の言葉をあらゆる社会から閉め出し、「皇民」を育成することを眼目とした「国語(筆者注:日本語)家庭」の創出への努力は、さも言語にも優劣があるが如く我々の言葉を植民地主義者は蔑視した。われわれ漢族出身台湾人は、幸いにも漢文化の抵抗の手段をもちあわせていたからこそ、植民地的状況下での最低のチャンス「二元性」を、家庭生活の場でかろうじて保持できた。
しかし書かれも読まれもせず、根本的に文字をもちあわせていなかった高山族はこの最低のチャンスさえ確保できず、口碑文化もほとんど統治末期においては壊滅状態にあった。
台湾先住民が独自の言語、独自の名前を失ったことの問題点は日本の植民地支配に留まらず、中華民国体制においてもそのまま継続されており、回復を求める動きが出ているところではある。しかし、日本の植民地支配下において台湾先住民のアイデンティティが軽んじられていたことは、台湾先住民の武装蜂起である霧社事件の発生からもわかる。
植民地支配の教育は以上に留まるものではなかった。植民者たる日本人教師は日本語の発音をうまくできなかった中学生時代の戴に、罵声を浴びせ、台湾人を威圧したのである。(※4)
ただ、戴にとって日本の植民地支配で最も痛ましく傷となっているのは、皇民化教育にあって、その教育をそのまま無批判に受け入れてしまったことであろう。戴は自分が皇民化教育を無批判に受け入れたことについて、次のように告白した。
しばらくしてS氏は声を落として、日本軍の暴行を細かく説明し始めた。強姦したあとで、局部に銃剣を突き刺した例まであげた。
いまにして思えば全く恥ずかしい話であるが、蚊帳をへだてて聞いていた私は、むっくり起きあがるなり、「日本軍は皇軍だ、そんな悪い事をするはずがない」と大きな声をあげた。
父たちは、顔面蒼白となった。困りはてた父はオロオロする大人たちを前においてこんこんと私をさとし、S氏の話を外に漏らすと、父さんたち全部が監獄に入れられること、S氏は「警察大人」に連行され、殺されるかもしれないと言うのだった。
皇民化教育を受けていた当時の青少年が何の批判的精神を持つこともできなかったことは、先に挙げたnote記事山田昭次著「植民地支配・戦争・戦後の責任」の中から「満州の日本人農業移民と中国人・朝鮮人」を読むで、山田昭次が日本軍が毒ガスを中国戦線で用いていることに何の感慨も持たなかったと告白したことで述べた通りである。ただ、戴の場合は日本の植民地支配によって主権を奪われ、日本人より格下の扱いとされた状況においてすら、日本の皇民化教育に無批判であったという意味では、山田とは別の意味でより深刻であると言える。
日本の台湾植民地支配によって台湾の人たちが奪われたものは何なのだろうか。戴の次の言葉は非常に重いと考える。
私はかねてから植民地統治の最大なる罪悪は経済的基盤の破壊や物的収奪にはなく、むしろ人間の破壊にこそあると考えている。言語の三重生活、母の言葉をもぎとられ、奴隷的思考に自ら堕してゆくこと等、植民地統治の罪悪の深さを深く深く人びとは知るべきだ。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
脚注
(※1) 司馬遼太郎 「台湾紀行」 P65 朝日新聞社
(※2) 人文研究No.149 戴国煇「日本近代史と台湾ー批判精神の欠如について」 P72 神奈川大学 人文学研究所/人文学会
なお、私は、戴自身は司馬遼太郎の「台湾紀行」に対して無批判、無関心な日本人に対しても、甘えがあると主張したかったのではないかと考えている。
(※3) 前回記事の引用箇所「戴国輝 「台湾」 P68 岩波書店」を参照のこと
(※4) 「密林の聖者」シュバイツァーはどう評価されてきたか⑦-なぜシュバイツァーが賛美されたのか-脚注(※7)を参照のこと。
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