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信仰に対する雑感⑤-聖書がキリスト者に歪曲されるとき-


キリスト者の戦争責任

歴史学者による批判

 私の通っていた大学の戦争責任についての恩師のエピソードについては、「大学・学者は自らの戦争責任を問えるか」において少し触れさせていただきました。ここでは当該引用箇所の詳細と、その後改めて考えたことをお話したいと思います。

 当該エピソードに関連する論文としては、創史社から発行されている山田昭次著「植民地支配・戦争・戦後の責任-朝鮮・中国への視点の模索」の中にある「足もとの戦後責任を見つめる」(※1)になります。この中で先生は、立教学院の戦争責任を追究したいとの想いを抱くようになったきっかけとして、立教学院礼拝堂に掲げられていた立教学院出身者の戦没兵士名を刻んだタブレットに気づいたからだとしています。

 タブレットの上段部には「名誉之戦死者」と刻まれ、下にヨハネによる福音書第15章第13節にある「人その友のために己の命を棄つる之より大なる愛はなし」と刻まれていたそうです。先生は、立教学院史資料調査センターの調査で、日中戦争が行なわれている1939年6月11日に行われた慰霊祭の際にタブレットが設置されたことを知りました。また、その慰霊祭においては「わがやまとの くにをまもり/あらぶるかぜをしずめ/よ〱やすけく をさめたまえ/わが かみ」の歌詞がある聖歌391が歌われたことを確認しました。

 以上から、先生は、礼拝堂の戦没兵士者のタブレットが、国のために戦争で死ぬことを賛美する靖国思想であることを指摘した上で、タブレットは日中戦争を聖戦とし、中国人を「あらぶる風」として敵対する発想ではないのか、と読者に問いかけました。また、このヨハネによる福音書第15章第13節の「人その友のために」という言葉が、キリスト教の「汝殺すなかれ」という戒めを中和することになったとの元学徒兵の証言や、戦没学生の遺族に対しては戦場で死んだ学徒兵を、己を盧しうする愛とみなすことで、戦争での死を肯定的に評価する効果をもたらしたことを紹介しております。

 その結果、戦争が侵略戦争であり、また、国家によって戦争に駆り出された兵士の死は無意味であるにもかかわらず、国家が行った責任が問われないまま、戦争体制に向かいつつあるとの見解を示しています。また、キリスト教徒に対しては、「人その友のために」が戦争中から今日にいたるまでどのように機能を果たしたのか議論するべきではないか、と問いかけています。

一キリスト者としての批判

 「大学・学者は自らの戦争責任を問えるか」でも述べましたが、先生が、教会関係者に礼拝堂の戦没兵士者のタブレットの内容について問いただしたところ、何も回答がなく、タブレットはいつの間にか撤去されていたということでした。私はこのエピソードを聞いた当初、教会関係者が戦争責任について向き合わないことを問題であると考え、その姿勢を嘆きました。しかし、今、改めてこのエピソードを考えた際に、キリスト教の信仰上別の問題があると気づきました。

 「大学・学者は自らの戦争責任を問えるか」の注釈(※2)にあるように、「人その友のために己の命を棄つる之より大なる愛はなし」でいう「人」とは、イエス・キリストのことであり、人が神に対して負っている原罪を償うために、イエスが自らが犠牲になるということを意味するのです。そこから考えれば、むしろ戦争に自らの命を捧げるという発想とは逆の発想が出てくるべきなのです。

 マキシリアノ・コルベ神父がアウシュビッツで殺されそうになった囚人の身代わりとなって自らが犠牲となって助けた行為や、長谷川テルのように、(※2)中国での侵略戦争を止めるべく、母国から売国奴と罵られ、また中国からは不信の目で見られることがあろうとも、エスペラントの同志たる中国の友人たちと共に行動し、戦争を止めさせようと日本兵に投降を呼びかける行為にこそ、イエスが自らを犠牲とし、私たちを友として助けようとする精神に通じるのではないでしょうか。

 そもそも、タブレットの内容がキリスト教信仰に明らかに反するにもかかわらず、なぜ教会関係者はそれを理解せず、歴史学者から問題点を指摘され、タブレットの内容の誤りを問うことなく、そのまま黙って撤去をするという消極的かつ事なかれな姿勢に終始をしたのでしょうか。真にキリスト教信仰を理解しているのであれば、キリスト者自身がタブレットの内容の誤りを総括し、キリスト教信仰に反する行為を戦争中に行ったことの自己批判と二度とそのような状況にさせないということを言明の上で、撤去をするかあるいは誤りを犯したことを明示の上教訓として残すといった行為をするべきだったのではないでしょうか。

キリスト者がなすべきこと

 日本の宗教史を考えると、宗教の理念たるいわゆる「仏法」か、国家の理念たる「王法」かどちらが本質であるべきかについて、調和という形を取り共存をするといういわゆる「中道」という概念が強調される傾向にあります。キリスト教においても日本の信者は基本的にはそうした日本の宗教「風土」に基づいて行動をしていると言えるでしょう。ただ、私はキリスト教の理念たる、人種、民族、性別、階級、国の違いなどを超えて互いを愛するという「隣人愛」に国家権力が介入し、妨害するのであれば、キリスト者は断固として拒否をする姿勢を崩すべきではないと考えています。また、そもそも「隣人愛」が否定されるような社会状況をキリスト者は阻止すべく常に行動をすることが求められているとも考えます。

 昨今、日本の状況は中国、韓国といった近隣諸国に対する憎悪、偏見のみならず、外国人全体に対する憎悪というゼノフォビアが蔓延しています。また、自分にとって都合の悪い存在として在日朝鮮人、障害者、犯罪を犯した人たちなどが「好待遇」であるとして攻撃されています。実態を無視して、自分たちの状況の不遇さを、政治状況、社会状況の問題として行動をするのではなく、他の人たちへの攻撃によって憂さを晴らすという戦争への道を突き進んだ1930年代のファシズムの状況と現在は同じ状況にあるのです。(※3)

 先生の論文は2005年に書かれたものですが、残念ながら2025年の現状はその時以上に深刻であると言わざるを得ません。「人その友のために」の真の意味は何か、そしてその真の意味を理解して行動するべきことが何か、キリスト者に問われているのではないでしょうか。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

脚注

(※1)  山田昭次「植民地支配・戦争・戦後の責任-朝鮮・中国への視点の模索」 「足もとの戦後責任を見つめる」 創文社 P268~P273

(※2) 国家の不条理に抗う精神(後編)-長谷川テル・劉仁夫妻に見る反戦活動-|宴は終わったが

(※3) 前総務大臣が民主主義が危ういと総務省幹部の前で涙を流しながら、語ったことの意味をどう考えるかが、私たちにも問われています。

 Xユーザーの毎日新聞ニュースさん: 「村上前総務相「民主主義が危ない」 幹部職員前に泣きながら訴え https://t.co/ib1N8nLSZK」 / X

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