本を読むこと
タイトルの「本を読むこと」だけを読むと、おそらく読者の皆さんは宴は終わったがはかなりの読者家なのだろうから、オススメの本とか、本を読む際に必要な方法を提示するのではないかと思われるかもしれない。しかし、恥ずかしながら私の読書量は通勤時間の隙間を利用して本を読む程度のものできちんと本を読んでいるとは言えない。また、本の読み方を学生時代にきちんと学んでおらず、本の読み方について学んだのは大学のゼミで行った清水幾太郎の「本はどう読むか」(※1)を通してくらいであり、その内容すら今はおぼろげである。そんな状況なので、ここで述べることは自分の読書体験とそれに対する反省についてであり、その意味では私を反面教師として読んでいただければと思う。
幼少期はとにかく本は読まなかった。それは私が本を読むことに関心がなかったことを不安視した親から干渉され、本を読むように強いられることに対する反発もあったからであろう。それでも小学校に入ると読書感想文を強いられるため、嫌々ながら本を読むこともあったというのが実際のところだった。だがそれでも成長するにつれて本を読んでおかないと、一般教養を身につける意味で大変なことになるということを、直感的に察するようになった。そのため、義務感から中学校に入ってから何気に日本、世界の有名どころの小説を読むようになった。
社会問題に関心を徐々に持ち始めた中学卒業間近から高校時代の間は、単なる小説だけではなく、社会問題に関する本を読むようになった。今も読んでいる教養系列の本に関する嗜好はこの時にできたと考える。具体的には岩波新書、中公新書など専門家が一般市民にわかりやすく、書いた本などを読んでいた。そのときは、恥ずかしながらそうした本を読んだだけで物事を知り、自分は教養があるかのような錯覚に陥っていた。そして本を多く読みさえすればいいという勘違いまでしていた。
多く読みさえすればいいということが誤りであることに気づかされたのは、社会人後も続けていた勉強会での元院生の発言だった。元院生の人が本を読むということは大変なことだと話したのである。曰く、本は1度読んだだけでは本の概要しかわからない上、著者の真意はわからない。それに本は著者の言うことをそのまま受け止めるのではなく、批判的考察を踏まえた読み方をしないと、本を読むのではなく本に読まれることになる。また、本を読んだ際には本について自分なりの考え、意見を考察するために時間を置いて読むことも大切だ、と。
この発言に、自分は本の読み返しとか著者の背景とかを知ろうということをほとんどしていないのに、本を読んでわかった気になっていたということを思い知らされた。もちろん研究者とそうではない者とは本に対しての姿勢が異なるが、それでも本を読みさえすればいいという考え方が驕った考えでしかないことはここからわかる。今年は去年に引き続きゴールデンウィーク中も外に出かけられる状況にはない。家の中にいる間自分が今まで読んできた本を読み返したり、書かれた本の背景は何かを調べてみるのもいいかもしれない。

私、宴は終わったがは、皆様の叱咤激励なくしてコラム・エッセーはないと考えています。どうかよろしくご支援のほどお願い申し上げます。
(※1)
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