ゴーリーと釜あげうどん【2025四国 振り返り日記04:高松】
■250505 2日目 その3
旅先で、美術館、博物館、郷土資料館、水族館に行くのが好きだ。(あと、ローカルなスーパーマーケットに行くのも好き。)
それはおそらく昔から、若い頃からそういう傾向がある。

今回も丸亀水族館はマークしていたが、でもどう行程を練っても今回は行けそうになかったので、次回以降ってことになった。
ところが、高松市美術館。ここはノーマークだった。
昨日このディスプレイを見てなかったら気に留めなかったかもしれない。
エドワード・ゴーリー(1925〜2000)。
「うろんな客」の、アメリカの絵本作家だ。残酷で不条理な世界観が気になるアーティストだった。
なんとなく、ティムバートンの世界とも繋がるよなぁ、くらいにしかとらえていなかった自分はだいぶと甘かった。

やはり、そもそもだが、美術の世界において「原画」の持つエネルギーは強烈なものがある。
たとえ数秒で描かれたクロッキーであっても10年かけた大作でも。原画は素晴しい。
観る前の想像と先入観は粉々に崩れたりすることが多い(ていうか、ほぼそれ)。
ゴーリーのおいたち、成長過程の背景を知りながら絵を観ていくとずるずるずるずると確実に彼の手中におさまっていくのがわかった。
高いデッサン力があるからこそできる大胆なデフォルメと、素晴しく緻密なペン画。黒インクと画用紙の白のその明度差とタッチの強弱と密度だけで描きつつ、観る側にイメージを膨らませる余白を与えるダイナミズム!
その奥深さとメッセージの厚みが、単なるシュールでネガティヴでアンハッピーエンドではない、大きな人間愛を見た。

作品としては「うろんな客」や「ギャッシュリークラムのちびっ子たち」などが有名だけれど、展示されていた中で僕が一番気に入ったのは「音叉」という作品のストーリーと原画だった。
不条理、理不尽の極みではあるのだが、醜いと疎まれた少女と海底の怪物が共鳴して行動(仕返し)を起こした、でもそれでハッピーエンドにはならない鬱々とした感じ・・・実は実世界ってそういうもんなんじゃないかなって思うくらいだった。
清濁併せ持つ、という意味を最近よく考えることがあるんだけど、なんとなくそこに通じるものがあった。

もうひとつ驚愕だったのが、この高松市美術館の建物。エントランスのガラス天井の高いこと。

そして企画展の会場階までの長いスロープ!計算されまくりの美。

余白まで緻密に計算された美しさを体感。それはゴーリーの絵にも通じていた。
家を追い出されたピン芸人みたいな大荷物を抱えて入った俺を目ざとく受付で見つけて声をかけてくれたスタッフのお姉さまにも助けられた。ありがとうございます。
いいことばっかりの高松。ありがたい。ほんとに。


その後、昨日からチェックしていた高松駅近くの釜あげうどんの店へ。
釜あげの小にとり天とたまご天(友達のユニット名みたいだな、、、鶏と鶏🤣)を添えて。
こういうのは惜しみなく生姜をぶち込んで、至福の味わいでわしわしといただく。

玉藻公園に滑り込んだ「ことでん」の可愛らしさったらもうたまらない。

桟橋ってのはまたまたもうなんとも薄暮も昼もセンチメンタルだ。

フェリー が行き交う姿をずっと眺めていた。

港桟橋の近くで演奏していた昨日友達になったNさんの演奏を聴いてから、高松を発つことにした。
ひとつひとつがなかなかぐっとくる。
歌っ旅は、いい。
ひとりがひとりじゃない感じが、続いている。
(つづく)
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