ご近所事件簿 第4話「小料理屋 大混乱の夜」
あらすじ
閉店間際の小料理屋「まんぷく亭」。
静かな夜は、一冊のメモ帳と一振りのフライパンから、途端に物語へ変わる。
“書かれる現実”と“起きている小説”が、今夜ほど近かったことはない。
本文
暖簾が風に鳴る。
小料理屋「まんぷく亭」のカウンターは、ほどよく磨かれ、湯気と出汁の香りが落ち着きを連れてくる。女将のおきよが、味噌汁の鍋をゆっくりかき混ぜた。
「今夜は静かだねぇ。嵐の前の静けさってやつかい」
「嵐なら、もう何度も越えてきたろ」勝じいが徳利を傾ける。「わしの胃袋が証人じゃ」
入口で鈴が鳴り、佐藤美咲が顔を出した。
「ただいまー……じゃなくて、こんばんは。宿題の続き、ここでやってもいい?」
「おや、いいともさ。お代は問題が解けたぶんだけ」とおきよ。
「それ絶対、赤字じゃん」と美咲。笑いがふわりと弾ける。
カウンターの端で、猫のタマが香箱座りをしている。つややかな背中が蛍光灯を反射して、のんびり尻尾が揺れた。ほどなくして、小林が入ってくる。
「今日は早めに切り上げられたよ」
「じゃあ、煮込みを一丁」とおきよ。
「二丁じゃ」と勝じい。
「じいちゃん、胃袋の証人が過労死するよ」と美咲が笑う。
鈴がもう一度鳴る。背の高い男が、場の空気を測るように一拍置いてから席に滑り込んだ。少し伸びた前髪の奥、目だけが落ち着きなく動く。
「……芹沢俊平です」
男は名乗ると、上着の内ポケットから小さなメモ帳を取り出し、表紙を親指で撫でた。
「売れない作家」と、彼は自嘲気味に付け足す。
「46のときにタバコをやめた。今のところ、それがいちばんのヒット作だね」
「それは立派だよ」とおきよが笑顔でお茶を置く。「で、今書いてるのは?」
「まだ、何も。だから、こうして街の音を拾いに来る」
タマが芹沢の足元に近づき、鼻先で靴をくんくんした。芹沢はわずかに口元を緩めると、メモ帳に一本線を引いた。
――芹沢メモ:
静かな店。お玉の音、味噌の香り、猫の呼吸。
物語は、いつも最初に音でやって来る。
おきよが出した煮込みが、テーブルに置かれる。湯気が細い糸になって、真上へ伸びていく。
「問題、解けない」と美咲が鉛筆を回す。
「どれ、見せてみぃ」と勝じいが身を乗り出した。
「じいちゃん、さっきまで“胃袋の証人”だったのに、いつのまに“数学の証人”に?」小林のツッコミで、また笑い。
――芹沢メモ:
笑いの音。ここは人が生きてる場所。
外はすでに夜の匂い。
暖簾の影が一度ゆらぎ、戻り、そして――もう一度、深く裂けた。
「動くな!」
覆面の男が飛び込んできた。黒いパーカー、手には安物のナイフ。店の空気が、鍋の火だけを残して一瞬で凍る。
「金だ。レジを出せ」
おきよの手が、ほんの少しだけ止まった。
次の瞬間、彼女はレードルを置き、代わりにお玉とフライパンを手に取る。
「――うちの味は、レジより重いんだよ」
軽口ではない。声に芯があった。おきよはカウンターを回り込み、犯人と客の間に立った。フライパンの面が、照明を受けて丸い月のように光る。
「お、おい……来るなよ」
勝じいは静かに立つと、鍋つかみを両手にはめた。「いざとなりゃ、わしは鍋奉行じゃ」
美咲は小林の袖を引き、目で合図した。小林はうなずき、離れたテーブルの下にスマホを滑り込ませる。タップ音は、鍋の煮える音に紛れた。
――芹沢メモ:
暴力の手前に、台所の音がある。
それは恐怖を割らず、しかし、飲み込ませもしない。
芹沢は、ナイフより速くペンを走らせた。
見ているのか、書いているのか、自分でもわからない境界で。
ここで女将は一歩踏み出す。
フライパンは盾、声は矛。
物語は、臆病な刃よりも勇気ある日常を選ぶ。
おきよが低く言う。「包丁は握らない。料理人は、人を傷つけない」
犯人がわずかにたじろいだ。
タマがすっと立ち上がる。猫の瞳孔は夜の光で丸く開き、床にしなるような影を落とす。
「タマ、来い」美咲が小声で囁いた。
タマは返事をしない。代わりに、カウンターの上にひょいと飛び乗り、皿の間を縫うように走った。
カチャリ、と小さな音。
犯人の視線が、一瞬だけ上へ引き寄せられる。
その足元、用意していた濡れ布巾がするりと滑り込む。
(小林がさっき、さりげなく床に落としておいたのだ)
「今だ!」おきよの声。
犯人の足が取られ、膝が笑い、身体が前へ。
その体重を受け止めたのは、丸い月――フライパンの平。
「熱くないように」と、おきよは火から遠ざけた冷めた方をあてがい、体の向きをそらせる。ナイフが床へ跳ねる音。
――芹沢メモ:
暴力は、力ではなく、角度で無力化できる。
料理人の角度。家の角度。町の角度。
「動かないでください」
入り口で鈴が鳴り、警察官が二人、素早く踏み込んだ。
美咲が仕込んだ通報は、すでに届いていた。
犯人の手首に、銀の環が二つ。
タマはいつのまにか、フライパンの上に座っていて、尻尾をぱたぱたさせている。
「お玉、返して」とおきよ。
タマは「ニャ」とだけ言って、カウンターへ戻った。
緊張がほどけて、店の空気が戻る。
おきよは深く息を吐いて、ふっと笑った。
「やれやれ。煮込みが泣いちまうよ。温め直さなきゃ」
「女将、あんたは強い」と勝じいが頷く。「わしは鍋奉行、あんたは事件奉行じゃ」
小林が床を拭きながら、「誰も怪我がなくてよかった」と言う。美咲は鉛筆を握り直し、白紙のノートを一枚めくった。
「今日の自由作文、これで勝てる気がする」
カウンターの端で、芹沢がゆっくりとメモ帳を閉じた。
長い長い息を、やっと吐いたように見えた。
「……46でタバコをやめてから、味が分かるようになった」
不意に彼が言う。
「煙にまぎれてた匂いが、戻ってきた。煮込みの出汁の輪郭とか、人の声の揺れとか――そういう、細い線が、はっきりと」
おきよが「そうかい」と頷く。
芹沢は続けた。
「今日、分かった。僕はまだ、書ける」
彼はメモ帳を、掌で一度だけ叩くように握る。
「現実に負けない小説じゃない。現実を、もう一度ちゃんと味わい直すための小説を」
――芹沢メモ:
フライパンの月。お玉の星。猫の彗星。
厨房は宇宙、女将は航海士。
今夜、物語は台所で生まれた。
警察官が事務的な確認を終え、会釈して去っていく。
店には、また出汁の香りが満ちた。おきよが鍋の蓋を開ける。湯気がもう一度、真上に伸びる。
「さぁ、冷めたぶんだけ、旨くしてやるよ」
おきよが火加減を見て笑う。
「物語も煮込みも、焦らしすぎると台無しだが、待ったぶん深くもなる」
勝じいが徳利を持ち上げた。「名言、出た!」
美咲がノートに書き写す。「“煮込みは物語”っと」
小林は肩の力を抜き、ふと入口の暖簾を見た。夜風が、さっきとは違う調子で布を揺らす。
タマがそれを目で追い、欠伸をひとつ。
芹沢は勘定を済ませ、ポケットにメモ帳を戻した。
「女将、今夜のこと、書いていいかい」
「うちの味を変えなきゃ、好きにおし」とおきよ。
「味は変えない。むしろ書いて、守る」
芹沢は一礼し、扉へ向かう。
暖簾の向こうに夜があり、その少し手前に、彼自身の次の一行が見えているようだった。
「俊平さん」美咲が呼び止めた。
「芥川賞とるなら、サイン色紙、先にもらっとくね」
「まずは、書く。受賞は鍋の火が決める」
芹沢はそう言って、照れ隠しのように片手を振った。
扉が閉まる。鈴の音が余韻を残す。
おきよはレードルを握り直し、みんなの器に煮込みをよそった。
「いただきます」
声が重なる。
勝じいが目を細めて言う。
「まったく……次はどんな大事件が起きるんじゃろなあ」
タマがカウンターから身を乗り出し、湯気の向こうで目を細めた。
今夜は、月が二つあった。
ひとつは空に、もうひとつはフライパンに。
そして、そのどちらにも、物語の光が確かに宿っていた。
本作はフィクションです。
©宇都宮幸宏
