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小説『浸蝕』|第5章:胃酸

あらすじ

鳴り響くスマホ、日常に溢れるノイズ、
心を削る怒号。


閉ざされた職場環境の中で、
世間に蔓延る搾取の数々。

徐々に自分を見失っていく恐怖を、
身体を侵食する「緑青錆」として
ビジュアル化した、
息もつかせぬサスペンス・ホラー。

人はいったい何を見ているのか。

社会からの「孤立」の先にある、
痛烈な気づきを描く全六章。


登場人物

葵(あおい):
デイサービスで働く介護職員。
職場での理不尽な怒号に耐え続ける中、
身体に「奇妙な異変」が起き始める。

阿久津(あくつ):
葵の上司。
執拗な圧迫と怒号で周囲を搾取する男。
彼の長く不潔な爪の隙間には、
澱んだ真緑色の汚れが見える。

カナタ(かなた):
葵の同僚。
阿久津の横暴に怯えながらも
淡々と業務をこなすが、
日に日に狂っていく葵の様子を気にかけている。


⚠️ ご覧いただくにあたっての注意

※本作はすべて無料でご覧いただけますが、
一部に身体の変容やグロテスクな描写、
強い精神的ストレスに関する表現が
含まれています。
苦手な方はご注意ください。


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第5章:胃酸


気がつくと、走っていた。

訳も目的も分からずに……。

ただ、必死で走る。

もう、息が続かない……。

脇腹も引きちぎれそうに痛い。
肺が口から飛び出てきそうだ。
限界も、とっくに超えた。

それでも、がむしゃらに走る。

いや、走らされているのか?

そんなことすら、
もう分からないし、
今は何も考えられない。

もう、休みたい……。

ふと、弱音とともに後ろを振り返った。

その瞬間、血の気が引いた。

真っ黒い、
何百、何千という不気味な影が、
津波のようになって追いかけてきていた。

飲み込まれる――。

飲み込まれまいと、
叫びながら必死で足を前に出した。

すると突然、足の感覚がふっと消えた。

視線を下へと落とす。

両足は、
すでにあの緑青錆に支配され、
感覚を失っていた。

驚いて自分の身体に目をやる。

右手だけでなく、左手にも、腕にも、
淀んだ錆がびっしりと広がっていた。

気づかなかった。

いつの間に、こんな姿になっていたんだろう。

「ゲホッ……ゲホッ……」

激しくむせ返る。

苦しい……。

もう、身体の内側にまで、
あの悍ましい錆の胞子のようなものが
蔓延している感覚がする。

苦しい……。

もう、限界だ……。

――ピンポーン。

ふと、甲高い音で目が覚めた。

バスがゆっくりと速度を落とし、
停車し始める。

あわてて車内のモニターを見上げると、
それは見慣れた、
あの忌まわしい職場の近くのバス停だった。

ふらふらになりながらも、
必死の思いでバスのステップを降りた。

「ゲホッ……ゲホッ……ゲホッ……」

冷たい朝の空気を吸い込んだ途端、
激しい咳が込み上げてくる。

こんな、全身が緑青錆まみれになった
異常な姿で出勤したら、
周囲のみんなは一体どんな顔をするだろう。

阿久津は絶対に、
今まで以上の大声で怒り狂うはずだ。

……もう、怒られるのは嫌だ。本当に、嫌だ。

施設に向かう足取りは、
一歩進むごとに泥を引くように
どんどんと重くなっていく。

やっとの思いで施設の入り口に辿り着くと、
ちょうど朝の送迎を終えたばかりのカナタが、
驚愕に目を見開いてこちらへと駆け寄ってきた。

「葵……!? どうしたの、その体……!?
 一体何があったの!?」

慌てふためくカナタ。

その瞳は、まるで化け物か何かを
恐る恐る覗き込むような色を帯びていた。

「見ないで……」

恥ずかしさと恐怖で、
何とかその思いを声に出そうとした、
まさにその瞬間だった。

「葵ぃぃぃぃーーーッ!!
 てめー、何やってたんだあぁぁぁ!!!」

フロアの奥から、
地響きのような阿久津の怒号が響き渡った。

ダンダンと、
怒りに任せて床を激しく踏み鳴らしながら、
こちらへ突進してくる足音が襲いかかる。

「す……すいませ……」

反射的に謝罪の言葉を口にしかけた瞬間、
背筋が凍りついた。

怒りで般若のように歪んだ阿久津の顔――
それは、ドロドロとした緑青錆に塗れ、
半分が不気味に溶け落ちていた。

剥がれ落ちた皮膚の隙間から、
ドス黒い血管や白い骨が、
生々しく剥き出しになっている。

さらに彼の身体からは、
昨日までの比ではない、
下劣で強烈な錆の悪臭が放たれ、
鼻孔を容赦なく貫いた。

耐えられないほどの、死臭に近い悪臭。

​「う゛ッ…………!!」

​あまりの異様な姿と凄まじい悪臭に、
強烈な吐き気が襲い、胃液が込み上げてきた。

​……ゴボッ。

​激しく咳き込んだ瞬間、
喉の奥が悲鳴を上げ、
口から大量の緑青錆をぶちまけた。

​吐き出した後も、
ジャリッとした不快な感触が口いっぱいに残る。

​同時に、弾けた錆からツンと鼻を突く
強烈な異臭が放たれ、
口の内側から鼻腔の奥までを
容赦なく刺し貫いた。

​「うっ……ゲホッ……!」

​喉の奥を焼くような鉄臭さと
刺すような刺激臭に、
さらに激しくむせ返る。

阿久津のその禍々しい姿を、
もう一秒たりとも直視できなかった。

本能的な恐怖に突き動かされ、
カナタの制止する声も振り切って、
その場から夢中で逃げ出した。




……気づいたら、
自分の部屋のベッドの上にいた。




あの職場の玄関からどうやってバスに乗り、
どうやってここまで帰ってきたのか、
その道中の記憶はもう、
どこをどうしても思い出せなかった――。



「このまま、どうなるんだろう……」


緑青錆にまみれて薄暗くなった部屋の中で、
ポツリと、小さく声が漏れた。

言いようのない、
果てしない不安が胸を支配する。

震える指でスマートフォンを操作し、
どれだけ検索エンジンを叩いても、
SNSを覗いても、
この「緑青錆」に関するニュースや情報の類は、
世界中のどこにも見つからなかった。

もしかして、このまま、
あの阿久津のような異様な姿になって、
全身が溶け出していってしまうのだろうか。

溶ける時、痛みはあるのだろうか。

これ以上、苦しくて辛い思いを
しなければいけないのだろうか。

行き場を失った感情が頭の中で溢れかえり、
どうしていいか全く分からない。

暗い部屋の真ん中で、
不安と恐怖だけが、
延々と、延々と脳内で反芻し続ける。

もう、どうすればいいのか、
自分ひとりでは何も分からなかった。



やがて、時間の感覚すらも徐々に失われていく。



あれから、一体何時間が経ったのだろう。



外はもう夜なのだろうか。
それとも、まだ昼なのだろうか。



また、あの阿久津から、

会社から、

地獄のような連絡が来るのかもしれない。

その恐怖だけにただ怯え、
誰からも見つからないことだけを、
暗闇の中で激しく祈るしかできなかった――。


▶ 次の話へ



あとがき

ご覧いただき本当にありがとうございました。

鳴り響くスマホの音、心を削る怒号――。
作中で描いた閉ざされた職場の空気感は、
僕自身の体験や、
現代社会の片隅でいまも起きている
「日常の搾取」をベースにしています。

誰にも頼れず「孤立」していく恐怖を、
緑青錆という形で表現した本作ですが、
読み終えた皆様のなかに、
何か「痛烈な気づき」のようなものが残れば
これ以上の喜びはありません。

【読者の皆様へお願い】
「おもしろかった」「ゾクッとした」など、
一言でも感想をコメントで教えていただけると
本当に嬉しいです。
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次回作への原動力になります!

田端うつ郎


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【小説「浸蝕」今後の展開】

第1章:爪
第2章:悪臭
第3章:隙間
第4章:鉄
第5章:胃酸(本記事)
第6章:腐敗【終】(2026.08.22)


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最後まで、ご清覧いただき、
誠にありがとうございました。

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