かえってきてほしくなかった!
それは、突然の出来事だった。
その日、私はいつものように仕事から帰り、すでに夫と息子が帰っているだろう家の玄関のドアを開けた。
帰り際に職場であまり聞きたくない周りの人の悪口をがっつり浴びてしまい(そして最後は自分に矛先が向いたような気もして)少し気分が沈んでいた。
ただいま、の声も、我ながら元気がない。
リビングにつながるドアの向こうで、息子の声がした。
「かーちゃんおそくなかった!!」
これから夜ごはん、というタイミングで私が帰ってきたことを喜んでくれたのかな、と一瞬思った。
でも、聞いているとどうも違う。その声のトーンや言い草は、大層不満そうである。
「かーちゃんおそくなかった!!!!!かーちゃんおそくなかった!!!!!!!」
息子の顔を見ると、『なんで帰ってきたんだよ!!』と言わんばかりの表情で、ついに泣き出してしまった。
そして、激怒しながら言った。
「かーちゃんかえってきちゃだめ!!おそとにいるのがよかった!!かえってきてほしくなかった!!!!」
えええええ。そんなぁ。。
夫が宥めようとするも、息子の怒りは一向におさまる気配がない。
3人でご飯食べようよ、声をかけるも、頑として「きょうはふたりごはんなの!さんにんごはんしないの!かーちゃんはごはんたべちゃだめ!!」と大泣きしながら訴える。
多分、前日は夫が勤務で一緒にいられず寂しくて、今日はとーちゃんと一緒だ!の気持ちが行き過ぎたのだろうけれど。(重すぎる彼女か)
私って、何なんだろう。
久々にこの感情が芽生えた。
おしゃべりを始めた1歳半くらいの頃、息子に、かーちゃんやーだ!とーちゃんいーい!とよく言われていた。
ちょうどその頃仕事が忙しくなり始めて(そして今に至るまで全然落ち着いていないのだけれど)、帰宅時間も遅くなり、私はかなり気持ちに余裕がななくなっていた。子どもが体調を崩して保育園から呼び出されることも多く、思ったように仕事と育児の両立ができない、ともがき始めた時期だった。
ずっとモヤモヤした気持ちを抱えていたから、子どもにも笑顔で接することができない。かーちゃんやーだ!はそんな浮かない顔ばかりしている私に向けられた言葉だったのだろうけれど、言われるたびにざっくりと傷つき、なんで、とよく落ち込んでいたのだった。
子どもが3歳になった今となっては、慣れもあって、まあ言いたいように言いなはれ、と私もメンタルをだいぶ鍛えたつもりでいたけれど。
今日の全力拒否は、なかなか堪える。
職場でのモヤモヤを引きずっていたから、尚更。
私って、一体誰に必要とされるんだろう。
わかったよ、かーちゃんいない方がいいんだね。
まるで拗ねた子が家出をするように、私は外に出た。ああ、泣きたい。(というかもう泣いている)
雪こそ降っていないけれど、18時を過ぎると、やっぱり寒い。
私は何となく自転車にまたがった。歩道に所々残る踏み固められた雪に注意しながら、あてもなく進む。
幸い、私の住んでいるエリアはこの市ではかなりの市街地で、観光地にも近い。自転車があれば行けるお店はいくつもあり、息子のお許しが出るまで暖かいお店に入って飲み物でも飲みながら、時間を潰すことは可能だった。
でも、今の落ち込んだ気持ちのまま入っても、夫からの連絡を待つばかりになってしまうかな。楽しくないかな。
いっそ、居酒屋さんに一人で入って好きなものを食べようか。夜の一人ご飯なんて、子どもが生まれてからは全くしていない。
近所の小さな居酒屋さんの前に着くと、営業はしているようだった。
いや、でもやっぱり空しいかな。
勇気が出なかった。
その時、ふと思いついた。スマホを取り出し、一人の友達にLINEを送る。
『急にごめん、今晩どこかでご飯食べる予定ある?』
段々私の気分が変わってきた。せっかくの夜の外出だ。楽しんだ方が得なんじゃないか。
相手は、私がかつて所属していた市の吹奏楽団で仲良くなった、少し年下の女友達である。私が吹奏楽団をやめてからもたまに連絡をくれる、とてもありがたい存在だ。
そんな気さくな彼女は一人暮らしの気楽さからなのか、地域のお店をリサーチし、かなりの率で外食をしていると以前聞いていた。もしかしたら急すぎる誘いに乗ってくれて、ご飯に付き合ってもらえるかもしれない。
しばらくは既読がつかず、まあさすがに急すぎるか、と私は自宅に戻るため、自転車を再び走らせた。
そろそろ夫と息子も夜ご飯を食べ終わる頃だろう。少し気分も上向きになったことだ、よしとしよう。
自宅マンションの駐輪場に戻ってきたときだった。
友達からの電話が鳴る。
「え、どっか一緒に行く?ラーメンでも食べようかと思ってたんだけど。」
おお、私の勘、グッジョブ!
と同時に、夫からもLINEが来た。
『息子、かーちゃん帰ってきていいって。』
お許しは出たようだ。
さて、どうしよう。一件落着で、家に帰った方がいいだろうか。
息子は私が帰ってくることを望んでいるだろうか。
友達からの電話を一旦切り、少し考えたけれど、すぐに私は夫に電話をかけた。
「友達とご飯食べてきてもいい?付き合ってくれる子がいたから。」
こうなったら、思いっきり楽しんでやろう。
夫も二つ返事で、「いいよ」と言ってくれた。横でいいよーという息子の声も聞こえる。(機嫌は直ったらしい)
かくして私は、久々に友達と二人で夜ご飯を食べに行った。
近所の駐車場で彼女と落ち合い、行先は中華料理屋さんに決まった。
普段食べられないエビチリ定食を頼んだ。
エビがプリプリで、チリソースもご飯によく合う。間違いなく家では作れない味だ。
定食のセットのラーメンは、ちょっと辛いものにした。
体調不良から回復するまで刺激物は控えていたから、久々の辛さが沁みる。
友達が頼んだ回鍋肉を少しもらった。
野菜がシャキシャキ、甘辛味噌味が後を引く。
何より、他人が作ったものを、それも出来立てをゆっくり食べられる、この幸せ。
息子が食べられるものを、と考える必要はない。
取り分ける必要もない。
デザートも怒られずに一人で食べられる。
夜が更けていく中、とにかくずっとおしゃべりができる。
いいじゃん、息子くんが許してくれたんだよ、ご飯行ってらっしゃいって言ってくれたんだよ。
彼女は、そう言って私の仕事のモヤモヤや息子のイヤイヤの話にずっと付き合ってくれた。
一人飯が回避できたわ!気になってたお店にも来れたし!一人やったら入っていいかわからないからさ~
そう言って喜んでくれた。
水曜日の夜。明日以降のことを考えると少し罪悪感があるけれど、今日だけは。
かつて、たまに仕事終わりに友達とサシ飲みに行っていたあの頃を思い出しながら。
本当にあっという間の時間だった。家を出た時の落ち込んだ気持ちは、すっかり消えていた。
きっと明日は明日の風が吹く。そんなに気にしなくて、大丈夫。
後で夫に聞くと、息子は寝る時間になっても私が帰ってこないとは思わなかったのか、「かーちゃんかえってきてほしい…」とつぶやいて寝たらしい。
かわいいものである(笑)
息子よ、君の言葉に少し傷ついて戸惑ったけれど、かーちゃんはお陰で貴重な時間を過ごすことができたよ。
何も言わず送り出してくれた夫と、誘いに乗ってくれた友達に、ありがとう。
そして、そんな風に気持ちを切り替えられるようになった自分を、少し褒めてあげたいと思った。
図太くなったな、私。いいぞ、その調子。
