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【短編ホラー】LUNA ーネオンテトラは夢を見ないー③

第3章 亀裂

アストラル・ドームで味わった恐怖は、緋室蓮耶の身体に毒のように残留していた。あれは単なるエンターテインメントではない。魂の脆弱な部分を探り当て、そこから侵食する捕食者の牙だ。確信はあったが、証拠は何もない。焦燥感だけが、ホテルの狭い一室で蓮耶を蝕んでいった。

その時、使い捨てのプリペイド端末が短い振動音を立てた。黒川からだった。『話がある』という短い文面と、座標データだけが送られてきた。
指定された場所は、再開発の波から取り残された古い埠頭だった。湿った潮風が、街の中心部から流れてくる甘い香料の匂いをわずかに洗い流していく。背後には天を衝く煌坂市の光の摩天楼が聳え立ち、目の前にはどこまでも続く暗い海が広がっている。ここは、光と闇の境界線だった。


その頃、エデン・インダストリーの最上階では、三日月灯が一人、巨大なアクアリウムの前に立っていた。
『人の精神に、土足で踏み込んでくる』
緋室蓮耶の、苦痛に満ちたあの言葉が耳から離れない。彼女はガラス越しに、完璧な秩序で泳ぎ続けるネオンテトラの群れを見つめていた。かつては「調和」の象徴に見えた光景が、今は息が詰まるほど窮屈な「管理」の牢獄に見えた。彼女は無意識に、父が常々口にする「完璧な世界」という言葉を反芻していた。
デスクに置かれた、幼い自分と母が映る写真立てに目をやる。病で亡くなった優しい母。父は、母のような悲劇をなくすためにLUNAを創ったのだと、幼い頃から彼女に語り聞かせていた。

その時だった。窓の外、煌びやかなネオンの光の中に、ふっと人影が浮かんだ気がした。母だ。微笑んでいる。だが、その顔は生前の温かいものではなく、まるでガラス細工のように冷たく、虚ろだった。
「お母様……?」
灯は吸い寄せられるように窓ガラスに手を触れた。しかし、指先に感じたのは無機質な冷たさだけで、幻影は蜃気楼のように揺らめいて夜景に溶けていった。彼女の心に、信じてきた世界の完璧さに、初めて小さな、しかし決定的な亀裂が入った。


「遅かったな」
コンテナの影から現れた黒川は、疲労の色を隠そうともせずに言った。彼は蓮耶にデータ端末を手渡す。画面には、夥しい数の顔写真と名前が並んでいた。
「俺が独自に洗った『神隠し』のリストだ。公式発表の三倍はいる」
蓮耶は息を呑み、スクロールする指を止めた。リストには、年齢も職業も性別もバラバラな人々が並んでいる。共通点が見いだせない。
「何の意味が……」
「あるさ」黒川は重々しく言った。「こいつらは全員、一年以内に身近な人間を亡くしている。家族、恋人、親友……。全員が、心にでかい穴が空いた連中だ」

『喪失体験』
それは、冷たい刃となって蓮耶の胸に突き刺さった。三年前、爆炎の中で消えた先輩の顔が脳裏をよぎる。自分もまた、このリストに名を連ねる「資格」を持っている。アストラル・ドームで感じた、あの抗いがたい安らぎ。あれは、傷ついた心に付け入るための甘い麻酔だったのだ。蓮耶は、自分が事件を追う探求者ではなく、蜘蛛の巣に自ら近づいてしまった獲物であることを悟り、背筋が凍るのを感じた。

「LUNAは悲しみに巣食うんだ」黒川の声が、確信を帯びて響いた。「偽りの幸福を見せて、抜け殻になるまで魂をしゃぶり尽くす。俺はそう睨んでいる」
「だが、これだけでは……」蓮耶は絞り出すように言った。「これだけでは証拠にならない。エデン社は『彼らが自らLUNAに救いを求めた結果だ』と言うでしょう。警察もメディアも、心の弱い人間たちの悲劇的な自己責任、で片付けてしまう」
「ああ、その通りだ」黒川は舌打ちし、懐からくしゃくしゃの煙草を取り出して火をつけた。紫煙が潮風にすぐに掻き消される。「上層部には何度も報告書を上げたが、全部『証拠不十分』で握り潰された。LUNAの危険性を内部告発しようとした元社員に接触を試みたこともある。だが、そいつは俺が会う直前に『神隠し』に遭っちまったよ」
絶望的な状況だった。公的な手段は全て壁に阻まれ、相手はこちらの動きを先読みしているかのように立ち回る。

「問題は、物証が何も残らないことだ」蓮耶は、アストラル・ドームでの体験を反芻しながら言った。「LUNAの光の成分を分析しても無駄でしょう。問題は光そのものじゃない。光に乗せて送られてくる『情報』だ。脳に直接干渉する、見えないプログラム……」
蓮耶は自分の仮説に、自ら恐怖を覚えていた。
「LUNAは双方向システムなんだ。街灯であると同時に、監視カメラでもある。人々の脳波や感情を常にスキャンし、その人間の最も脆い部分……悲しみや喪失感につけこんで、最適な『幸福』という名の幻覚を送り込む。そして最終段階で……」
蓮耶は言葉を区切り、黒川の目を真っ直ぐに見た。
「彼らの意識そのものを、どこかへ抜き取っているんじゃないか」
「意識を……抜き取る?」黒川は目を見張った。SFじみた話だ。だが、この狂った街では、それこそが最も腑に落ちる答えだった。
「ええ。だから誰もいなくなる。痕跡も残らない」蓮耶の声に熱がこもる。「その証拠は、物理的な世界には決して残らないんです。警察の捜査網にも、我々メディアの取材網にも引っかからない。失踪者たちのリスト、彼らの意識がどう処理されたのか、全てのログ、全ての記録は、奴らの牙城……エデン・インダストリーのサーバーの中にしかない」

埠頭に、一瞬の沈黙が落ちた。遠くに見える煌坂市のネオンが、巨大な生き物の脈動のように明滅している。
やがて黒川は、短くなった煙草を足元に吐き出し、ブーツの踵で無造作に踏み潰した。その目には、危険な賭けに出る者の覚悟が宿っていた。
「……つまり、大元の心臓を叩くしか道はない、と」
「そうです」蓮耶は強く頷いた。「LUNAのシステムサーバー、その中枢(コア)に直接アクセスして、奴らが何を収集し、人々をどこへ連れ去っているのか、その動かぬ証拠を掴む。それしか、この光の化け物の正体を世間に知らしめる方法はありません」

こうして、埠頭の闇の中、二人はひとつの結論に達していた。それは、あまりにも無謀で、あまりにも危険な唯一の活路だった。
「警察内部にも、まだ魂を売り渡していない奴が数人いる」黒川は言った。「そいつらに協力させ、サーバーのセキュリティ情報と、内部への侵入経路を確保させる。……明日の夜、決行だ」
ようやく掴んだ反撃の糸口に、蓮耶は頷いた。二人は固い握手を交わし、闇の中へと別れた。


ホテルに戻り、蓮耶が計画の詳細を練っていた、その時だった。再び端末が鳴った。だが、表示されたのは黒川の番号ではなく、非通知の着信だった。
「……もしもし」
『こちら煌坂中央警察です。緋室蓮耶さんのお電話でよろしいですね』
冷静な事務的な声が、最悪の報せを告げた。『…黒川宗介巡査部長が、先ほど、路地裏で何者かに襲われ、病院に搬送されました。現在、意識不明の重体です』
時間が止まった。

蓮耶はタクシーを飛ばして病院に駆けつけたが、できることは何もなかった。集中治療室のドアは固く閉ざされ、ガラスの向こうで無数のチューブに繋がれた黒川の姿が小さく見えるだけだ。唯一の協力者。唯一、この街の狂気に立ち向かっていた男が、沈黙した。

蓮耶は、待合室の椅子に崩れるように座り込んだ。窓の外には、変わらない煌坂市の夜景が広がっている。LUNAの光は、まるで巨大な捕食者が獲物を仕留めた祝杯をあげるかのように、いつもより一層明るく、勝利を誇示するように輝いていた。

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