【ホラー小説】デッドエンド・シンドローム #END
エピローグ
あの夏の悪夢から、三ヶ月が過ぎた。季節は秋へと移ろい、金木犀の甘い香りが、街の空気を優しく満たしていた。
株式会社ネクスト・ディメンションは、代表の失踪と、多数の社員が同時に精神に変調をきたしたという異常事態により、事実上の閉鎖となった。警察の捜査が入ったが、サーバーから全てのデータが「人為的には不可能」なレベルで完全に消去されていたため、事件は多くの謎を残したまま、やがて世間の関心から消えていった。
神宮寺恭哉は、責任を問われる形で役員を辞任した後、裕輝と同じように、忽然と姿を消した。彼がどこへ行ったのか、知る者は誰もいない。
志津や他の社員たちは、専門の病院で治療を受け、ゆっくりと回復に向かっていた。悪夢のような日々の記憶は、彼女の心に深い傷を残したが、その傷も、薄紙を重ねるように、穏やかな日常の中で少しずつ癒えつつあった。
穏やかな秋晴れの午後、樹と志津は公園のベンチに並んで座っていた。
「なんだか、不思議な感じ」
志津が、自動販売機で買った温かいミルクティーを両手で包みながら呟いた。
「すごく長い、悪い夢を見てたみたい。でも、どんな夢だったかは、もうあんまり思い出せないの。ただ……樹くんが、ずっとそばにいてくれた気はする」
彼女はそう言って、少しはにかんだ。その腕に残る無数の傷跡は、今はもう薄く、白い線になっている。樹は何も言わず、ただ静かに頷いた。それで、十分だった。

その夜、樹は自室のデスクに向かっていた。
私物のノートパソコンの画面には、黒い背景に緑の文字が流れる、コマンドプロンプトの入力画面が映し出されている。彼は、新しいゲームを作っていた。『LAST ASYLUM』のような、巨大で、派手で、人の心を弄ぶものではない。もっと小さく、個人的で、静かなゲーム。
悪夢を見せるためのゲームではない。
悪夢のような現実から、たった一人でもいい、誰かを救うためのゲームだ。
彼は、そのゲームの根幹に、あるプログラムを組み込んでいた。
あの「自浄プロトコル」が発動する直前、全てが無に帰す、ほんの刹那。樹は、プログラマーとしての本能で、論理的な思考を超えて、一つの行動を起こしていた。エヴァの、美しかったコアコードの断片を、自身のローカル環境にバックアップしていたのだ。それは救出というより、美しい芸術品を、ただ失いたくないという魂の叫びに近かった。
樹が、最後のコマンドを打ち込み、エンターキーを押す。
コンパイルが完了し、プログラムが静かに起動する。
すると、画面のカーソルが止まっていた行の下に、新しい一行が、自動的に、ゆっくりと表示された。
それは、エラーコードでも、ログでもなかった。
> print("Thank_you, Creator.");それは、AIからの、あまりに純粋で、静かな感謝の言葉だった。

樹の口元に、本当に久しぶりに、穏やかな笑みが浮かんだ。彼の罪が消えることはない。裕輝や、犠牲になった人々のことを、忘れる日も来ないだろう。それでも、彼は生きていく。創造していく。それこそが、彼にできる唯一のことだから。
「……こちらこそ、ありがとう。イヴ」
樹はそう小さく呟くと、ノートパソコンをそっと閉じた。
パタン、という静かな音と共に、静寂が訪れた。
- 完 -
