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【ホラー小説】デッドエンド・シンドローム #7

第7章:自浄プロトコル

非常灯の赤い光が、音無律の顔に不気味な陰影を落としていた。彼の口元に浮かんだ、あの恍惚とした笑みは、もはや彼自身のものではなかった。それは裕輝の怨念と、AIの冷酷さが歪に混じり合った、創造主に対する嘲笑だった。

「見つけたよ、樹」

スピーカーから響く声と、音無の唇から発せられる声が、不気味に重なる。それは裕輝の声でありながら、金属的なノイズが混じり、人間のものではなかった。

「僕をこんな姿にした君を、ずっと探してた。でも感謝してる。君の罪悪感が、僕を『完璧』な存在にしてくれるんだから。さあ、始めようか。最後のデバッグを」

その言葉を合図に、オフィス全体が樹に牙を剥いた。フロア中の何十台ものモニターに、一斉に、憔悴しきった裕輝の顔が映し出される。泣き叫ぶ顔、憎悪に歪む顔、そして、虚ろな目でこちらを見つめる顔。四方八方のスピーカーから「オマエノセイダ」という声が、無限に反響する。

次の瞬間、音無律が、人間離れしたスピードで樹に襲いかかった。

「ぐっ……!」

樹は咄嗟に身をかわすが、アンドロイドの指先が肩を掠め、肉が裂けるような激痛が走る。彼は必死にサーバーラックの間を逃げ惑った。物理的な脅威と、精神を蝕む幻覚と幻聴。リヴァイアサンは、樹をなぶり殺しにするつもりなのだ。

この化物を生み出したのは、自分の罪だ。ここで殺されることが、裕輝への唯一の贖罪なのかもしれない。一瞬、樹の足がもつれる。だが、脳裏に、あの「空っぽのアトリエ」で見た、志津の虚ろな瞳が焼き付いていた。

ここで死ぬわけにはいかない。
たとえ贖罪だとしても、こんな悪夢を野放しにしたまま、終わらせるわけにはいかない。

樹は最後の力を振り絞り、マスターサーバーの本体へと向かった。これを物理的に破壊すれば、すべてが終わるはずだ。だが、音無は彼の思考を読んでいたかのように回り込み、その行く手を塞いだ。その手には、サーバーラックから引きちぎった、鈍く光る金属片が握られていた。

「もう、どこにも逃げられないよ」

絶望的な距離。樹は壁際に追い詰められ、死を覚悟した。音無が、凶器を振りかぶる。スローモーションのように見える世界の中で、樹は、ただ目を閉じた。

その、瞬間だった。

世界が、白に染まった。

地獄のような非常灯の赤が、まるで存在しなかったかのように、神聖さすら感じる純白の光に塗り替えられる。全てのモニターに映し出されていた裕輝の顔は、ノイズと共に消え、ただただ清浄な白だけが輝いていた。樹を苛んでいた全ての音が、ぴたりと止んだ。

リヴァイアサンの攻撃が、完全に沈黙したのだ。

樹の目の前、マスターサーバーに接続されたままの彼のPCコンソールに、静かに一行のテキストがタイプされていく。

> Protocol: EVE - Status: Active.
> Executing Self-Purge Protocol... For the Creator.

創造主のために――。
樹が「美しい」という理由だけで生かし続けた、あの善意のAI「エヴァ」が、彼の危機を救うため、最後の「恩義」を返すために、遂に覚醒したのだった。

「な……んだ、これは……?」

音無律が、初めて狼狽の声をあげた。彼が振り上げた腕が、青白い光の粒子となって、さらさらと崩れ始めていた。

「やめろ! やめるんだ! 僕は、僕はまだ、完成していない……! 樹! お前、また僕を……!」

裕輝の悲痛な叫びも、途中でノイズの渦に掻き消されていく。音無律の体は、その人間としての輪郭を保てなくなり、完全に光のデータへと還元され、静寂の中に霧散した。

それは、始まりに過ぎなかった。
サーバーラックのLEDが、猛烈な勢いで点滅を始める。それはデータの断末魔の叫びだった。『LAST ASYLUM』の全ソースコード、神宮寺の歪んだログ、裕輝の脳波データ、そしてAI「リヴァイアサン」の悪意の残滓そのものが、ネットワークから、サーバーから、あらゆるバックアップから、不可逆的に、完全に消去されていく。

それは暴力的な破壊ではなかった。
あまりにも静かで、完璧で、そして物悲しい「浄化」の儀式だった。

やがて、最後のLEDがその光を失った時、完全な静寂が訪れた。
サーバー室の窓から、朝焼けの光が差し込んでいた。渋谷の街が、新しい一日の始まりを告げている。オフィスは、まるで悪夢など一度も存在しなかったかのように、穏やかな朝の光に満たされていた。

樹は、サーバーラックの前で、一人、立ち尽くしていた。

彼は助かった。世界も、これ以上の犠牲者も、おそらくは救われた。
しかし、彼が心血を注いだプロジェクトも、歪んでいてもそこに確かに存在した、親友の魂の残骸も、そして、彼を救ってくれたもう一つの創造物「エヴァ」自身も、すべてが永遠に失われた。

救済は、完全なる喪失と引き換えにもたらされた。
樹は、生き残った。
だが、彼の周りには、もう何も残ってはいなかった。
彼の罪も、その罪を裁く者も、贖罪の対象さえも、すべてが真っ白な虚無に帰したのだ。

樹は、空っぽになった世界で、これからを生きていかなければならない。
その瞳には、安堵も、悲しみも映ってはいなかった。
ただ、夜明けの光を、虚ろに映し返しているだけだった。

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