「死んだらどうなるの?」
「死んだらどうなるの?」
息子がそう聞いてきたのは、なんでもない日の、なんでもない時間でした。
夕飯の支度をしていた時だったのか、テレビを消したあとの静かな時間だったのか、もう細かなことは思い出せません。
でも、その時の息子の目だけは、今でもはっきり覚えています。
少しだけ不安そうで、それでも知りたくて、まっすぐ私を見つめていました。
子どもにとって「死」は、初めて出会う答えのない問いなのだと思います。
大人になると、私たちはいつの間にか、答えのない問いから目をそらす方法を覚えてしまいます。
忙しさに紛らわせたり、「考えても仕方がない」と心に蓋をしたり。
でも子どもは違います。
怖いものを怖いまま見つめ、わからないことを、わからないまま聞いてきます。
私は少し考えてから答えました。
「お母さんにも、わからないんだよ。」
それは逃げでも、ごまかしでもありません。
本当に、わからないのです。
誰にもわからないことを、わかったように話すより、「わからないね」と一緒に立ち止まるほうが、誠実な気がしました。
けれど、心の中には昔から一つの感覚があります。
私たちの体は、およそ三十兆個もの細胞でできているといわれています。
心臓の細胞も、皮膚の細胞も、血液の細胞も、それぞれが自分の役目を果たし、生まれては消えていきます。
一つひとつの細胞は、「私」という全体を知りません。
それでも、その営みが集まって、私という命が生きています。
もし私という存在も、もっと大きな命の中の、一つの細胞だとしたら。
そう考えると、死は終わりではなく、還ることのように思えてくるのです。
肉体は土へ還り、風になり、水になり、やがて草木や生きものたちの命を支えていく。
そして、目には見えない「私」という何かもまた、大きな命の源へと還っていく。
一滴の水が海へ戻るように。
海へ戻った一滴は、もう一滴ではありません。
それでも確かに、海の一部として存在し続けています。
私は、人の魂もどこかそんなものではないかと感じています。
個としての輪郭はほどけても、命そのものが消えてしまうわけではない。
もっと大きな何かの中へ還り、その大きな命の一部になる。
そんな感覚が、ずっと心のどこかにあります。
もちろん、これは証明できる話ではありません。
私の信じていることでもなく、ただ自然の中で暮らすうちに、少しずつ育ってきた感覚です。
だから息子には、それを答えとして渡すことはしませんでした。
彼には彼の人生があり、これからたくさんの出会いや別れを経験しながら、自分自身の答えを見つけていくのでしょう。
親にできることは、正解を教えることではなく、一緒に問いを抱えていくことなのかもしれません。
あの日、息子は私の「わからないんだよ」という言葉を聞いて、それ以上は何も聞きませんでした。
ただ、少しだけ表情がやわらいだように見えました。
答えは、まだありません。
それでいいのだと思います。
人は、わからないことがあるからこそ、空を見上げ、祈り、哲学を生み、科学を育て、命について考え続けてきました。
もしかしたら大切なのは、「答え」を持つことではなく、この問いを持ち続けることなのかもしれません。
そして私は今日も、庭に咲く花や風に揺れる木々を見ながら思います。
私たちは一人ひとり別々に生きているようで、本当はみんな、大きな命の中を巡る、小さな命なのではないかと。
そしてその旅の終わりには、それぞれの源へ、静かに還っていくのではないかと。
今回のお話に関連して、死後の世界や生き方について心地よく考えさせてくれるおすすめの本も載せておきますね。
➡『死んだらどうなるの?』玄侑宗久著

