白竜の翼と青き記憶 ── 前日譚③「最後の任務、と前衛として届けられなかった距離」
──【温(ぬる)のアトリエ:Main Exhibition】──
魔法なら、一瞬で届いた。 なのに、肉体(自分)は一歩も動けなかった。
最強の術師と謳われたルナが、その「全能」を呪いだと悟ったあの日。 自分と親友を隔てた、絶望的なまでの「三十メートル」という距離の記録です。
彼女が魔法を捨て、泥まみれの「白竜騎士団」の門を叩くに至った決定的な理由。 本編、そして執筆中のスピンアウトへと繋がる、最も深く、最も熱い「後悔」を展示します。
※本作はAI生成画像から得たインスピレーションを元に、人の手で紡がれた物語です。🚫 画像の無断使用転載禁止
回想:青魔導士ルナ、三年前
あの日の記憶
三年前のあの瞬間を、ルナは今でも「消すことができない」。
それはただの記憶の想起ではない。閉じていても瞼の裏に焼き付いて離れない、数万の欠片からなる、生々しい傷跡の束だ。
あの冷たい秋雨が降り始めてから、七十二日目の午後。
峡谷の岩肌は、雨に打たれ続けて黒く光っていた。一歩踏み出すたびに、足元の石が予告なく滑る感触。水を含みすぎた空気は、呼吸するたびに硬い棘のように肺の奥を刺した。
そして、何より——自分と綺雪(きせつ)を隔てていた、絶望的なまでの「三十メートル」という距離。
ただ一つだけ、当時のルナの頭が導き出せていなかった致命的な問いがある。
あの日、百五十年磨き続けた「完璧な術式」を捨てて、なぜ自分の「肉体」という不格好な質量で飛び込めなかったのか。
その解答を得るために、彼女は今、魔導士としての誇りを泥の中に捨てている。
冷たい安全圏
雨は、世界の輪郭を溶かしていた。
峡谷の岩肌は、降り続く雨によって黒く光る猛獣の皮膚のように変貌していた。一歩踏み出すごとに、ブーツの底が吸い付くような、それでいて不意に裏切るような底知れない滑らかさを伝えてくる。
空気は飽和し、呼吸をするたびに冷えた肺が悲鳴を上げる。ルナは高台の岩棚に立ち、杖を介して周囲の空気の流れを読んでいた。
「……足場が危険です。雨でぬかるんでいます。綺雪さん、今日の前衛はお勧めしません」
ルナの声は、雨音に混じって冷淡に響いた。
崖下では、綺雪が革紐を締め直し、短剣の重さを確かめていた。彼女の体からは、雨を弾くわずかな熱気が揺らぎとなって立ち上っている。百五十年、ルナが背中を預け、守り続けてきた、ただ一人の「親友」だ。
「わかってる。でも、こいつらを野放しにしたら集落が落ちる。ルナちゃん、あなたは上から私の眼になって。細かい足場は、私の感覚でカバーするから」
「……感覚、というものは信頼できません。ですが、集落の安全を優先します。私は岩棚の頂点に留まります。射線を確保するため、距離は通常より十メートル後退——計三十メートルを維持します」
「了解。信じてるよ、最強の後衛さん」
綺雪の笑顔。
雨粒がその頬を伝い、唇の端で弾ける。ルナの目には、その笑顔が、美しくも不吉な予感として焼き付いた。
傲慢な空白
戦闘開始から三十分。
ルナの術式は、完璧に機能していた。
蒼雷の閃光が空を裂き、岩殻の捕食者たちの足を焼き、動きを封じる。綺雪はその隙を突き、踊るような剣技で急所を穿つ。
三十メートルの距離。それはルナにとって、戦場を俯瞰し、最良の一手を見極めるための「神の視点」を保つ絶縁距離だった。
(……順調です。綺雪さんの呼吸も乱れていない。あと少し——)
その内心の慢心が、世界の「厚み」を見誤らせた。
突如、岩壁の亀裂から、一体の個体が「這い出した」。
死角ではなかった。ルナの視界には、その三次元的な動きがはっきりと捉えられていた。
しかし、その個体は「攻撃」ではなく「滑落」を選んだ。
雨で緩んだ地盤そのものを崩し、土砂と共に綺雪の背後へと、重力に従って静かに加速したのだ。
(……軌道がおかしい。術式を——!)
ルナの指が、雨の中で杖を握りしめる。
冷たい魔力が神経系を駆け巡る。しかし、頭の端がたった一つの事実を突きつけた。
(今の術式を中断すれば、正面で押さえている四体の拘束が解ける。綺雪が正面から食い殺される——)
(……ならば、走る? 私自身が、飛び込む?)
その瞬間、ルナの意識は、己の「身体」という存在の空虚さに直面した。
百五十年、彼女は「術式」であり「視点」であり「後衛の目」であったが、「泥を踏みしめる肉体」ではなかった。
網膜が、三十メートル先で背後からの崩落に気づかない綺雪の、細い首筋を捉える。
(……術式で撃ち抜けば、光は一瞬で届く。しかし正面の四体が解き放たれる。
……私が今この高台から飛び降り、肉体で彼女を庇えば——だが岩を蹴り降りるのに、どれだけかかる。どう計算しても、爪が綺雪に届く前に、重力がその小さな身体を引き裂く未来しか見えない。)
頭では分かっている。
ならば飛べ。岩を蹴れ。泥を踏みしめ、三十メートルを駆けろ。
なのに——ルナの足は、動かなかった。
百五十年、安全圏から魔法だけを撃ち続けてきた足腰は、岩の角を蹴る方法すら覚えていなかった。膝が小刻みに震えている。爪先が泥の上で空滑る。「跳べ」という命令が頭の中で叫ぶのに、それを実行するための筋肉が——どこにもなかった。
三秒。
今この身体が一歩でも前に踏み出せれば。
ただ、それだけのことが、あまりにも遠かった。
「綺雪っ——!!」
叫びは、雷鳴にかき消された。
届けられなかった感覚
光が走った。
ルナが放った、最大出力の蒼雷。
それは正面の四体をもろとも焼き払い、迂回した一体の眉間を完璧に撃ち抜いた。
恐ろしいほど美しく——そして、ひどく空虚な光だった。
魔法は届いた。
三十メートルを、一瞬で越えて。
光にはなんの重みもなかった。手応えもなかった。風を切った感触も、泥を踏んだ痛みも、何ひとつ。
しかし、それは「一秒」遅かった。
捕食者の死骸が重力に従って前のめりに倒れ込む、その刹那——残された慣性の爪が、綺雪の左脇腹を深く抉っていた。
ルナが岩棚から転がり落ちるようにして彼女の元へ辿り着いた時、地面の泥はすでに彼女の血で赤く染まっていた。
熱い。それが、ルナが最初に感じた唯一の感覚だった。
あんなに冷たい雨の中で、綺雪の血だけが、馬鹿みたいに熱かった。
処置をするルナの手は、かつてないほどに激しく震えていた。
「……綺雪さん、綺雪さん……」
「……あは、ルナちゃんの声、震えてる。珍しいね……」
血を吐きながら、綺雪はそれでも笑おうとした。その指先が、ルナの頬に触れる。冷たい雨水と、熱すぎる血の感触が混ざり合う。
「……今は喋らないでください。なんで、なんで私は、あと一歩、踏み出せなかった——」
「……魔法は、最高だったよ。私、見てたもん。凄かった……」
その言葉が、ルナの魂を切り裂いた。
「凄かった」魔法。それこそが、彼女を守れなかった原因なのだ。
魔法に頼り、距離を置き、安全な場所から世界を御しようとした、自分の臆病さの象徴。
(私は、近くに行きたかった。魔法というフィルタを通さず、この腕で、あなたの隣に立ちたかった……)
百五十年の誇りが、泥の中に溶けていく。
雨は降り続き、ルナの杖は泥にまみれて光を失った。
最初の一歩
三年後、二度と剣を握れない体となって病室で眠る綺雪の寝顔を背に、ルナは白竜騎士団の重い門を叩いた。
「魔法は捨てます。もう、要りません」
受付にいた、数百年をその職で過ごしたであろう老練な騎士が、耳を疑ったように聞き返した。
「何を言っている、娘。お前は大陸でも有数の術師だろう」
「……私は、三十メートルの距離を歩けない、ただの無能です」
ルナは、まだ彼女の血が染み付いている自分の手を見つめた。
あの時、この手が届いていれば。あの時、身体が動いていれば。
最強の術師としての誇りは、彼女を救えなかった瞬間に、呪いへと変わった。
この手に必要なのは、光り輝く杖ではない。
あの熱さに、直接触れられる場所まで行くことだ。泥を掴み、壁を登り、誰かの体を直接支え、共に傷つくための——泥臭くて、重くて、不格好な「最前線」。
白雪のように冷たく完璧だった彼女の心に、初めて「泥」が混じった。
それは絶望という名の、再生への第一歩だった。
手帳の最後の一行。
『体で届きに行けるようになるため、魔法を手放す』
その文字は、雨に濡れたように、少しだけ滲んでいた。
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