ソ連崩壊前からロシアとウクライナを考えてみる1 第2次大戦終戦後~
初めに
ロシアのウクライナ侵攻について、親ロシア派と親ウクライナ派と勝手にカテゴライズにされてお互いの話が全く通じないという状況になってるようです。これは同じものでもどの時点から見るかによって全く見え方が変わってしまうためなのかなあ…なんて思いました。また、西側陣営の日本においてはロシア側の見方がほとんど報道されないため、理解が進まない一因になっていると思います。そこでロシアのソースも使いながら、この侵攻の本質や何が起こっているのかを理解するために源流まで遡り出来るだけ簡潔に経緯をまとめてみます。
・ウクライナ侵攻を理解するために必要な情報だけ簡潔に抜き出します
・理解が変わってしまうような重要な事象の抜け等あればご指摘ください
・時間がある時に少しずつ書き足していくので完成まで時間がかかるかもしれません
オレンジ革命前までの状況
1939年~ 民族主義組織の下地
第2次大戦でウクライナは民族主義組織が台頭した地域でした。ソ連の支配下にあったためナチスドイツを解放者として迎え入れ、積極的にナチスに協力する組織がいくつも出てきたのです。こうして現代まで続くネオナチの下地が出来上がっていきます。
後にウクライナの英雄の称号が与えられるONUリーダー、ステパンバンデラ
1945年~ 冷戦下CIAのナチス利用
第2次大戦終結後、米国とソ連の間で冷戦と呼ばれる直接戦火を交えない対立が始まりました。ソ連邦におけるウクライナの重要性を理解していた米国は、まだ細々と残るウクライナナチスを防諜のために利用します。ナチス幹部が裁判にかけられ次々と断罪されていくなかウクライナナチスはCIAにより欧州や米国で匿われていたことが、機密解除となった文書で明らかになっています。
米ソ冷戦のさなかゴルバチョフ書記長がソ連のリーダーとなりペレストロイカ、グラスノスチという改革・情報公開の政策を推し進めます。この開放感のなか、ウクライナでは再びナチスのような民族主義が台頭、1989年に政治組織「ナロードニ・ルーク」が登場します。
1991年~ ソ連崩壊後の経済混乱
市場開放とオリガルヒ
米国との軍拡競争で経済的に立ち行かなくなったソビエト連邦は、1991年末にいくつかの共和国が離脱し始めて崩壊しました。しかしすぐに豊かにはなりません。国内マフィアと組んで財を成したオリガルヒ(新興財閥)が旧国営企業の利権を手にしてますます富を独占、人々の暮らしは苦しくなるばかりでした。
90年代のオリガルヒは下記記事参照
ロシアとウクライナの明暗
1999年にロシアはエリツィンに変わりプーチンが大統領となりました。当初オリガルヒに従順と思われていたプーチンは側近にKGBの同僚や部下を引き入れオリガルヒと相互不干渉の協定を結ばせました。これは政治に口を出させない代わりに自由に商売をやらせるというもの。協定違反のオリガルヒ弾圧などを経て、富の独占を防ぎロシアは経済成長を軌道に乗せました。
ロシアの石油利権をめぐる戦い
2004年3月18日 田中 宇
一方のウクライナは改革どころかオリガルヒの独占、政府の汚職は酷くなるばかり。1992年から2012年までの間にIMFから借り入れを起こしながらも下記のような悲惨な状況となっていった。
人口 ▲12% (5,200万から4,600万へ)
国内居住人口 ▲ 25% (5,200万から3,900万へ)
GDP ▲32%
GDPの世界シェア 2% → 0.2%
一人当たりGDP 世界平均+11% → 世界平均▲40%
電力生産 ▲35%
トラクター ▲95%
金属工作機械 ▲99%
国立科学アカデミーの従業員数 ▲50%
科学者総数 ▲70%
産業関連研究所総数 ▲90%
雇用者総数 ▲1,200万
対外借入れ +245億ドル(GDP比率80%)
平均寿命 71歳 → 68.8歳(男性は62歳)
年金受給年齢 55歳 → 60歳
CIGS ウクライナ問題について その2
2000年~ 政権転覆カラー革命
2000年頃から旧共産圏諸国で次々と”カラー革命”が起こります。これは選挙の結果を受けて反体制派が過激な抗議活動を行い、独裁者とされていたその国の指導者を辞任に追い込むというもの。この運動の背後には政治体制の親米化を進め民主化ドミノを実現させたい米国務省やCIA、オープンソサエティ財団があると囁かれています。
グルジア バラ革命を見てみましょう。これは後にウクライナのオレンジ革命につながってきます。
2003年11月の議会選挙で野党勢力を中心とした反政府運動が起こりデモ隊が国会議事堂を占拠し、シュワルナゼ大統領は11月23日に辞任に追い込まれました。2001年までシュワルナゼ政権で法務大臣を務めていたサーカシビリが大統領となります。
この反政府運動を率いたサーカシビリの経歴は以下の通り。
・キエフ大学法学部卒
・米コロンビア大学留学
・ニューヨークの法律事務所勤務
・グルジア帰国、国会議員当選
ジョージ・ソロスの協力
ソロスは2000年にグルジアを訪問し、オープンソサエティ財団グルジア支部を設立します。2003年4月にはクマラという学生運動組織に50万ドルの資金援助、8月にはセルビアで政権転覆を成功させた「オトポル」幹部をグルジアに呼び、クマラの学生メンバー1000人に政権転覆の講義を3日間行いました。
米国の外交術
・ジェームス・ベーカー元国務長官
2003年7月、ベーカー元国務長官がグルジアを訪問した。目的は11月の選挙で不正が行われないよう、シュワルナゼとサーカシビリら野党を話し合わせるためだが、この時シュワルナゼにこう釘を刺しました。「11月の選挙で不正が行われたらアメリカは貴方を支持しなくなる」
・国際問題民主研究所(所長はオルブライト元国務長官)
サーカシビリら野党は選挙監視を要求しました。米シンクタンクの国際問題民主研究所が依頼に応じ、民間調査会社を使って選挙の出口調査を行うことになりました。
・ルスタビ2
選挙当日、反政府系のテレビ局「ルスタビ2」が出口調査を放映していました。このテレビ局の大株主はジョージ・ソロス。
バラ革命の仕上げ
選挙は親シュワルナゼの与党「新しいグルジア」が21%、サーカシビリの「国民運動」は18%の得票でしたが、「ルスタビ2」の出口調査と大きく食い違うため学生の反政府運動が激化します。
米国政府は「シュワルナゼはベーカーに約束した公正な選挙を行わなかった」と批判します。
シュワルナゼは11月23日に辞任し、2004年3月にやり直し選挙を行うことになりました。結果はサーカシビリの政党「国民運動」が議席のほとんどを獲得して圧勝。
グルジアのバラ革命は、セルビアで政権転覆を成功させたオトポルのシンボルやノウハウをそのまま輸入したような運動でした。
ここまでがオレンジ革命までの流れと状況整理でした。続きは2へ
