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短編小説「北海道神宮で出会った彼女は、三年前に亡くなっていた」

第一章(起)――判官さまと、湯気のない手

四月二十九日。

 

札幌に春が来るのは、本州よりずいぶんと遅い。

蓮見蒼が北海道神宮の表参道に足を踏み入れたのは、午前十時を少し過ぎたころだった。エゾヤマザクラが参道の両脇に満開で、風が吹くたびに花びらが乱れ、砂利道の上に薄紅色の絨毯を織った。それでも空気はまだどこか冷たく、ジャケットの襟を立てたくなるような肌寒さが、吐く息にかすかな白さを残した。

 

大学二年生、二十一歳の春だった。

蒼がここへ来たのは、深い理由があったわけではない。友人たちはゴールデンウィークを実家や旅行先で過ごし、下宿の部屋にひとり残された彼には、することが何もなかった。SNSを開けば誰かの楽しそうな写真ばかりで、それを眺めるのもなんとなく億劫で、気づけば自転車に乗って、ここまで来ていた。

参道を歩いていると、屋台が並んでいるのに気がついた。

 「判官さまいかがですか。焼きたてですよ」

 

年配の女性が笑顔で呼びかけてくる。判官さま――餡を包んだ小判型の焼き菓子で、北海道神宮の名物だ。蒼は財布を探り、何故かふたつ買い求めた。

受け取った瞬間、熱さが指に走る。紙袋越しでも伝わってくる温度。香ばしい醤油の香りが、冷たい春の空気に滲み出した。

蒼は参道の脇、石灯籠の近くに立ち止まり、判官さまをひとくち齧った。外はかりっと焼け、中には北海道産の小豆餡がたっぷりと詰まっている。甘さと塩気が舌の上で溶けあって、冷えた体の芯から温まるような感覚があった。

 「おいしそう」

 声が聞こえたのは、そのときだった。

振り返ると、一人の少女が立っていた。

白いワンピース。桜の木の下に佇むその姿は、四月の肌寒さをまるで感じていないかのようだった。袖も丈も薄く、風に揺れる裾は春というより初夏のためのものに見えた。年のころは十八か、十九か。髪は肩の少し下まで伸ばされ、耳の後ろに桜の花びらがひとひら、静かに張りついていた。

 「食べますか」

 蒼は反射的にそう言って、残りの一枚を紙袋ごと差し出した。我ながら間の抜けた行動だと思ったが、少女は少しだけ目を丸くして、それから静かに微笑んだ。

 「いいんですか」

「買いすぎたので」

 

少女は両手で受け取り、判官さまをそっと口元に近づけた。ありがとうございます、と小さく言った声は、砂利を踏む人々の足音に半分溶けて消えた。

蒼がふと気づいたのは、その直後のことだった。

冬の終わりに買った自分のコーヒーカップは、持っているだけで指が温まる。屋台から受け取った判官さまは、紙越しに熱さが伝わってきた。なのに少女の白い手から、湯気が立っていなかった。焼きたての菓子を持ちながら、その手は冷えた春の空気の中に、ただ静かに存在していた。

変だ、と思った。しかし何がどう変なのか、言葉にできなかった。

 

「毎年ここに来るんですか」と少女が言った。

「いや、初めてです」

「そうなんですね」

 

少女は判官さまを一口食べた。美味しい、と言った。その声音は本当に嬉しそうで、蒼は胸のどこかが、ほんのりと温かくなる感覚を覚えた。

 

「あなたは? 毎年来るんですか」

「ええ、今日だけ」

「今日だけ?」

「四月二十九日だけ、ここに来るんです」

 

少女は桜の木を見上げた。花びらがひとひら、ふたひら、彼女の白いワンピースの肩に降り落ちた。それを払いのけることも、彼女はしなかった。

二人はしばらく並んで、参道を行き交う人々を眺めた。会話は多くなかった。それでも不思議と気まずくはなく、砂利を踏む靴音と、どこかから響いてくる笛の音と、桜の散る音だけが静かに流れた。

 

「そろそろ行かなければ」

 

少女が言ったのは、三十分も経たないうちだった。

 

「また来年も来ますか」と彼女は言った。

「……どうかな」と蒼は答えた。「でも、あなたがいるなら、来るかもしれない」

 

我ながら、妙なことを言った、と思った。少女は少し笑って、ありがとう、と言った。その言葉はとても静かで、でもどこか、長い時間の底から響いてくるような重さがあった。

人混みに紛れ、白いワンピースの後ろ姿が消えていく。

蒼はしばらくその場に立ちつくしていた。桜が散り続け、彼女の手から湯気が立たなかったことを、ぼんやりと思い返していた。

 

 

第二章(承)――変わるもの、変わらないもの

一年が、思いのほか早く過ぎた。

蒼は約束をしたわけではなかった。四月二十九日、去年と同じ道を、去年より少しだけ慣れた自転車で走りながら、彼女がまた来るかどうかなど、考えないようにしていた。

考えないようにしていた、ということは、ずっと考えていた、ということだ。

参道に入ると、エゾヤマザクラはやはり満開だった。北海道の桜は律儀で、毎年この時期になると申し合わせたように花を開く。砂利道に落ちた花びらの色も、石灯籠の苔の深さも、去年と寸分違わないように見えた。

判官さまの屋台も、同じ場所にあった。

蒼はふたつ買い、去年と同じ石灯籠の近くに立った。熱さが指に伝わる。一口齧ったとき、去年の記憶が舌の上で蘇った。

 

「また来てくれたんですね」

 

声は背後から来た。

振り返ると、白いワンピースの少女が立っていた。

髪の長さも、耳の後ろに張りついた花びらも、去年と同じだった。いや、同じというより、まったく変わっていなかった。一年という時間が、彼女にはひとかけらも触れていないかのように。蒼は一瞬、自分の記憶が美化されていたのかと思ったが、そうではなかった。目の前の彼女は、去年と一センチも違わず、そこにいた。

 

「来ました」と蒼は言った。「約束はしてなかったけど」

「でも来てくれた」

「……あなたが、また来るって言うから」

 

少女は微笑んだ。去年と同じ微笑みだった。

その年、二人は去年より少しだけ長く話した。蒼は大学での話をした。苦手な統計学の講義のこと、サークルを幽霊部員のままにしていること、就職のことをそろそろ考えなければならないのに、何になりたいのかまるでわからないこと。少女――彼女はその日初めて、涼風結菜という名前を教えてくれた――は、静かに耳を傾け、時折笑い、時折小さく頷いた。

 

「就職、難しそうですね」と結菜は言った。

「そうなんですよ。やりたいことが特にないのに、やりたいことを聞かれる」

「でも蒼さんは、人の話を聞くのが上手そうだから、きっと大丈夫です」

 

蒼さん、と呼ばれた瞬間、胸の内側で何かが静かに揺れた。いつの間に名前を伝えていたのか、思い出せなかった。けれど彼女の口から自分の名前が出てくることが、不思議なほど自然に感じられた。

別れ際、また来年、と結菜は言った。

蒼は、来ます、と答えた。

三年目の四月二十九日。

蒼は紺色のリクルートスーツを着ていた。

就職活動の合間を縫って来た。スーツのままここへ向かった。革靴が砂利道に沈むたびに、場違いな硬い音が立った。

スーツは窮屈だった。肩の縫い目が動くたびに突っ張り、シャツの襟が首筋に食い込む。面接官たちの視線を思い出すたびに、胃の奥がじくじくと痛んだ。「あなたの強みは何ですか」「五年後のビジョンを聞かせてください」――答えるたびに、自分という人間が薄い紙一枚にぺたんと押しつぶされていくような感覚があった。

それでも結菜に会いたかった。

 

「スーツ、似合ってますよ」

 

石灯籠の前に着いたとき、結菜はもうそこにいた。白いワンピース。肩に花びら。変わらない笑顔。

 

「全然似合ってない」と蒼は言った。「窮屈で、息苦しい」

「そうかな」

「毎年同じ格好ですね」

 

言ってから、少し意地悪だったかと思った。しかし結菜は気にした様子もなく、そうですね、とだけ言って、桜の木を見上げた。

今年も二人で判官さまを食べた。蒼のスーツに花びらが降り積もった。結菜の手から、今年も湯気は立たなかった。

就活の話をするうちに、蒼は気づけば愚痴をこぼしていた。上手くいかない面接のこと、周囲と自分を比べてしまうこと、何者にもなれない気がするという漠然とした恐怖。結菜はすべてを静かに受け止めた。否定せず、急かさず、ただそこにいてくれた。

 

「結菜さんは、今何してるんですか」

 

ふと蒼は聞いた。三年間、自分のことばかり話していた気がして。

 

「私は……ここにいます」

「ここって、札幌?」

「ええ」

 

それ以上は言わなかった。蒼も、それ以上は聞かなかった。

別れ際、また来年、と結菜は言った。

来ます、と蒼は言った。

家に帰る道すがら、蒼は考えた。結菜は毎年四月二十九日にしかここへ来ない、と言っていた。他の日は何をしているのだろう。連絡先を聞いたことがない。聞こうとするたびに、なぜか言葉が出なかった。次こそは、と思いながら、今年もまた聞けなかった。

それでも、と蒼は思った。

来年もここへ来れば、会える。

――――

四年目の春が来るころ、蒼は社会人になっていた。

札幌の小さな広告代理店に就職し、慣れない仕事と慣れない人間関係の中で、毎日を消耗しながら過ごしていた。仕事は多く、覚えることは山積みで、帰宅するころには思考する力が残っていなかった。

四月二十九日

参道に入ると、蒼はジャケットのポケットに手を突っ込み、判官さまの屋台へまっすぐ向かった。ふたつ買った。

石灯籠の前に来ると、結菜がいた。

白いワンピース。桜の花びら。変わらない笑顔。

蒼は二十四歳になっていた。就職して、上司に叱られて、取引先に頭を下げて、それでも毎日をどうにかやり過ごしてきた。目の前には、一年前とまったく同じ姿の、十八歳の少女が立っていた。

 

「社会人になったんですね」と結菜は言った。

「なりました。しんどいですよ」と蒼は笑った。

「でも来てくれた」

「毎年来てます」

 

紙袋をひとつ差し出すと、結菜は両手で受け取った。冷たい指が、一瞬蒼の指に触れた。

その冷たさに、蒼はもう慣れていた。慣れていた、と思っていた。

しかし今年、その冷たさは、去年よりも少しだけ深く、胸に刺さった。

 

 

第三章(転)――止まった時間の、残酷な意味

きっかけは、些細なことだった。

四年目の四月二十九日まで、あと一週間というころだった。蒼は残業を終えて帰宅し、スーツを脱いでソファに倒れ込んだ。

結菜のことを考えるのは、いつも夜だった。

三年間、連絡先を聞けなかった。

聞こうとするたびに、言葉が出なかった。その理由を、蒼はずっと自分の臆病さのせいだと思っていた。しかし今夜に限って、別の考えが頭をかすめた。

スマートフォンを手に取った。結菜が以前、ぽつりと言っていた言葉を思い出した。円山で育ったと言っていた。高校の話をしていたこともあった。断片的な言葉を手繰り寄せながら、検索窓に名前を打ち込んだ。

涼風結菜。

結果は多くなかった。同姓同名らしき別人がいくつか出てきて、蒼は画面をスクロールした。SNSのアカウントでも見つかれば、と思っていた。

四ページ目に、それは出てきた。

地元の小さなニュースサイトだった。日付は三年前の四月二十九日。

蒼は画面を、しばらく見つめたまま動けなかった。

記事は短かった。円山公園付近の交差点で、自転車に乗っていた少女が乗用車と接触し、病院に搬送されたが死亡した。十八歳。名前は、涼風結菜。

三年前の、四月二十九日。

蒼が初めて結菜に出会った、あの日だ。

――――

眠れなかった。

記事をもう一度、丁寧に読んだ。

事故は午前中に起きていた。場所は北海道神宮から、さほど遠くない交差点だった。

北海道神宮から、さほど遠くない。

蒼は息を呑んだ。

頭の中で、記憶と事実が静かに重なり始めた。

あの日、結菜は白いワンピースを着ていた。四月の北海道にしては薄すぎる、春というより初夏のための服だった。蒼はそれを、彼女の感覚が自分と違うのだろうと思っていた。しかし今になって、別の解釈が浮かんだ。

あの服は、誰かに見せるために用意したものではないか。

大切な日のために、選んだものではないか。

さらに記事を読み進めると、末尾に一行あった。「被害者は事故当時、複数のメッセージを受信した状態のスマートフォンを所持しており――」そこで記事は個人情報への配慮から詳細を省いていたが、蒼には十分だった。

結菜はあの日、誰かと会う約束をしていた。

北海道神宮の近くで、事故に遭った。

つまり、彼女がずっと毎年この場所へ来ているのは――

蒼は画面を伏せた。

彼女が想い続けているのは、あの日会えなかった「別の誰か」なのではないか。

その誰かに会いに行く途中で死んで、だから毎年四月二十九日に、同じ服を着てこの場所に来る。

判官さまを食べて、少し話して、また来年と言って。それは結菜にとって、本当に会いたい相手を待つ時間の、ただの余白だったのかもしれない。

みっともないと思った。死んだ少女に嫉妬している自分が、どうしようもなくみっともないと思った。

それでも、胸の奥が痛かった。

三年間、毎年この日だけを楽しみにしていた。結菜の笑顔を思い出すたびに、来年また会えると思うだけで、どんな仕事の疲れも少し薄れた。就活がうまくいかない夜も、先輩に叱られた帰り道も、四月二十九日が来ればまた会えると思っていた。

しかし彼女が想うのが別の誰かなら、自分の四年間はいったい何だったのか。

四月二十九日まで、あと一週間だった。

すべてを知った上で、会いに行かなければならないと思った。理由は上手く言葉にできなかった。ただ、このまま何も言わずにいることだけは、できなかった。

 

 

第四章(結)――桜吹雪の中で、光に還る

四月二十九日の朝は、よく晴れていた。

蒼は開店前から判官さまの屋台の前で待った。年配の女性が少し驚いた顔で店を開けると、蒼は静かにふたつ分の代金を差し出した。

参道に入ると、エゾヤマザクラが満開だった。風が吹くたびに花びらが舞い、砂利道の上に薄紅色の絨毯が広がっていた。空は高く、光が木漏れ日となって参道に降り注ぎ、散る花びらをひとひとつ、金色に縁取っていた。

こんなに美しい場所だったのか、と蒼は思った。

四年間、毎年ここへ来ていた。それなのに今日初めて、景色がそう見えた。

石灯籠の前に立つと、結菜はもうそこにいた。

白いワンピース。肩に花びら。

あの日のまま、十八歳のまま。

蒼は足を止めた。いつもなら「また来てくれたんですね」と笑うはずの結菜が、今日は微笑まなかった。ただ蒼の顔を見て、すべてを察したように、静かに目を伏せた。

長い睫毛に、花びらがひとひら降り落ちた。

 

「……知ってるんですね」

 

結菜の声は、いつもより小さかった。

蒼は答えなかった。代わりに、ゆっくりと歩み寄った。結菜の前に立ち、その両手に紙袋をひとつ差し出した。結菜は反射的に両手を出して、受け取ろうとした。

蒼はその手を、そっと包んだ。

すり抜けた。指が、空気を掴むように通り過ぎた。

それでも蒼は、包み込むような形のまま、両手を重ねた。冷たさだけが、かすかに残った。

 

「君がずっと待っていたのは、俺じゃなかったかもしれない」

 

蒼は静かに言った。

 

「それでも、俺は君に会えて嬉しかったよ」

 

風が止んだ。

参道を行き交う人々の声が、遠ざかった。桜の枝が揺れるのをやめた。世界がひとつ、息を吸い込んで止めたような、そんな静寂があった。

結菜の目から、涙がこぼれ落ちた。

大粒の涙が、音もなく頬を伝った。

 

「違うの」

 

結菜の声が、かすかに震えた。

 

「最初は、そうだった」

 

蒼は何も言わなかった。ただ、聞いていた。

 

「あの日、会いに行こうとしていた人がいた。初めて、好きだと思った人と、ここで会う約束をしていて……だから、この服を着て、自転車で向かっていた」

 

桜が、また舞い始めた。

 

「でも毎年、ここへ来るたびに、蒼くんがいた。就活で疲れた顔をした蒼くんが。社会人になって、それでも来てくれた蒼くんが」

 

結菜は涙をぬぐおうとして、手を頬に当てた。その手は、自分の頬をすり抜けた。それでも彼女は、拭うような仕草をやめなかった。

 

「大人になっていく蒼くんを見ていたら、私の止まった時間が、少しだけ動く気がした。あなたと話す四月二十九日だけ、私は生きている気がした」

 

蒼は唇を噛んだ。

 

「私ね、蒼くんに恋をしたの」

 

その言葉が、静かに胸の中に落ちた。

 

「止まった時間を、動かしてくれてありがとう」

 

蒼は何も言えなかった。言葉が、見つからなかった。見つけようとしたが、何も出てこなかった。ただ、目の奥が熱くなった。

――――

結菜の輪郭が、ゆっくりとぼやけ始めた。

最初に消えたのは、指先だった。

白いワンピースの袖から伸びる細い指が、花びらと混ざるように透けていく。蒼は思わず手を伸ばした。包み込もうとした。しかしもう、冷たさすら残っていなかった。指の形だけがそこにあって、触れようとするたびに、春の空気に溶けていった。

 

「結菜さん」

 

名前を呼ぶと、彼女は笑った。

困ったような、それでいて穏やかな、今まで見た中で一番柔らかい笑顔だった。

次に消えたのは、足元だった。

白いワンピースの裾が、砂利道から浮くように薄れていく。花びらが彼女の輪郭に沿って舞い、どこからが結菜でどこからが桜なのか、だんだんわからなくなっていった。それでも上半身は、まだそこにあった。まだ、笑っていた。

蒼は一歩、踏み出した。

もう一歩、踏み出した。

何をするつもりなのか、自分でもわからなかった。ただ、少しでも近くにいたかった。最後の一瞬まで、そこにいたかった。

 

「蒼くん」

 

結菜が言った。その声は、遠くから聞こえるようでもあり、耳のすぐそばで囁かれるようでもあった。

 

「泣かないで」

 

蒼は自分の頬に手を当てて、初めて気づいた。いつの間にか、涙が伝っていた。

 

「泣いてない」と言ったが、声が震えた。

 

結菜はくすりと笑った。その笑い声だけが、しばらく参道に残った。

肩が消えた。髪が消えた。桜の花びらが耳の後ろに張りついたままの、あの横顔が、少しずつ、少しずつ、光の中に溶けていった。

最後まで残ったのは、目だった。

まっすぐに蒼を見ている、あの静かな目だけが、花びらの渦の中にぽつんと残って、それからゆっくりと、微笑むように細くなって――

 

「蒼くん」

 

声だけが、した。

 

「判官さま、美味しかったね」

 

あの日と同じ声だった。

初めて出会ったあの日、おいしそう、と言ったときの、あの声だった。

蒼は答えようとした。美味しかったね、と言おうとした。しかし喉が締まって、声が出なかった。出てきたのは、言葉ではなく、息だけだった。震えた、白い息だった。

四月の空気は、まだ冷たかった。

風が、一度だけ強く吹いた。

桜吹雪が激しくなった。花びらが視界を埋め尽くした。薄紅色の光が参道全体に満ちて、砂利も灯籠も木々も、すべてが柔らかく白く染まった。

蒼は目を細めた。

花びらの向こうに、もう誰もいなかった。

風が止んだ。

静寂が、戻ってきた。

石灯籠の前に、蒼はひとり立っていた。紙袋がふたつ、手の中にあった。片方は誰にも渡されないまま、それでもまだ、温かかった。

蒼はその温かさを、しばらくそのまま握っていた。

冷めるまで、手放せなかった。

――――

蒼はしばらく動けなかった。


蒼は空を見上げた。

薄い青。光を透かすエゾヤマザクラ。散り続ける花びら。

悲しくないわけではなかった。

ただ、それよりも確かなものが、今は胸にあった。

自分の時間は、動いている。

二十四歳で、仕事があって、叱られて、疲れて、それでも毎年この日だけ有給を取るような、そういう人間として今日もここに立っている。

結菜が見ていたのは、そういう自分だった。

止まった時間の中から、動き続ける自分を見ていてくれた。

蒼はもう一口、判官さまを食べた。

熱さが、指に伝わった。甘さと塩気が、舌の上で溶けた。

目の奥が、またじわりと熱くなった。今度は泣かなかった。泣き終わった後の静けさが、胸の中に広がっていたから。

来年もここへ来ようと思った。ひとつだけ買って、石灯籠の前で食べようと思った。結菜がいた場所に立って、彼女が見ていた景色を、自分も見ようと思った。

それが、蒼にできる唯一のことだった。

そしてそれは、十分なことだと思った。

桜吹雪の中を、蒼はゆっくりと歩き出した。

参道の先に、春の光が満ちていた。

 

 

キャラクター設定

​主人公:蓮見 蒼(はすみ あおい)
設定: 札幌の大学に通う21歳。少し冷めた現実主義者だが、          根は情に厚い。
名前の由来: 北海道の澄んだ冬空や、神宮を囲む深い緑(青葉)を連想させる名前。
​ヒロイン:涼風 結菜(すずかぜ ゆいな)
​設定: 3年前に18歳で事故死した少女。生前、神宮の桜を見る約束を果たせなかった未練から、毎年「その日」だけ姿を現す。

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