【シロクマ文芸部】ブランコに
ブランコに、弟がいたんだ。
そう言ったら、母は泣き、父は黙り込んだ。
親戚は目を逸らし、知人は眉をひそめた。
みんなが忘れたふりをする。十年も前のことだから。
十年前、弟が消えたのは、うだるように暑い夏の午後だった。
家の前の小さな公園。ブランコに座って「ぼく、オレンジジュースがいいなあ」と言う弟の声。
台所に走って冷蔵庫からそれを出して戻ると、もうそこには誰もいなかった。
目を離したのは時間にして5分もなかったのに。その僅かな間に消えた、僕の弟。
蝉の声が、悲鳴のように響いていた。
あの日から僕の時間は止まっている。
高校に行き、大学に行き、社会人になった。
仕事を終え駅から歩いて帰る途中。僕の足は無意識に公園に向かう。
ブランコの前に立ち、ただ風が吹くのを待つ。
ゆらゆらと揺れるそれに、弟がまだ乗っている気がして。
そしてその日。
風はなかった。なのに、揺れていた。
きぃ、きぃ、と、あのときと同じ音を立てて。
気がつくと、小さな影がブランコにあった。
見間違いかと思うくらい朧げな影。小さな足がブランコが動くに合わせ、ぷらぷらと揺れている。
なぜだか僕には確信があった。
「いるのか?」
喉の奥から声が漏れた。
きぃ。
肯定するように、ブランコが返事をした。
「弟が戻ってきたんだ」
僕がそう言っても、誰も信じなかった。
「あの子はもういないの」
両親は憐れむように目を伏せ、同僚には無言で距離をおかれた。
それでも僕はブランコに通った。必ずオレンジジュースを持って。
弟は毎晩そこにいた。きぃ、きぃ、とブランコを揺らしながら、ぼんやりとした輪郭でかすかに笑っていた。
そして囁くのだ。
「ぼく、オレンジジュースがいいなあ」
十年前と同じ声で。
ある晩、いつもようにジュース片手に公園に行くと、ブランコは動いていなかった。
風が強い夜だった。どうやら台風が近づいているらしい。
黒々とした木々が揺れる。月は隠れ、明かりは今にも消えそうな公園の街灯だけ。
ぴくりとも動かないブランコの前で、僕は立ち尽くした。
翌朝、ブランコの前にはオレンジの缶ジュースだけが落ちていた。
*
次の日、男が一人、忽然と姿を消したことが報じられた。
監視カメラには夜の公園に立ち尽くす男の姿と、空のブランコが映っていただけだった。
その後、公園のブランコで遊ぶ子どもが口々に言うようになる。
「なんか、だれか乗ってる」
「ふたりで乗ってる」
「ちっちゃいのと、おおきいの」
そしてある子がぽつりと呟いた。
「おにいちゃんって、呼んでたよ」
それ以来、公園のブランコには誰も近づかなくなった。
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