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生きるためには他者からの愛情が必要である|ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」読書記録・読書感想

自分は一人の人間である。その事実を認識するには、他者からの愛が必要である。ダニエル・キイスが綴った「アルジャーノンに花束を」は、白痴(以降、重度知的障害者)のチャーリィ・ゴードンの人生を通して、そうした真理を我々に伝えてくれる。


ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」を読んでチャーリィ・ゴードンについて考える

重度知的障害者として生まれ、とある研究によって天才となり、そして重度知的障害者に戻ったチャーリィ・ゴードンの人生において、他者からの愛は常に重要なテーマになっている。彼は、友人たちからの愛情に応えるため、また自身を愛してくれなかった母親のために知力を求めた。

そして知力を手にしたチャーリィは、友人たちが愛情を向けてくれなくなったことに深い悲しみを覚え、依然として母親の愛情を求め、またアリスとの恋愛に葛藤し続けた。最終的に、彼はすべての愛情を得たとも言えるし、失ったとも言える。

愛情を失ったと言えば悲劇のように思えるけれど、彼は様々な愛情と向き合い続けたからこそ、最後にそれらと前向きに決別できたし、知力の喪失に絶望せず、受け入れ、新しい人生を歩むべく、それまで関わった多くの人々の元から旅立てたのだろう。

もっともチャーリィは、決して愛することをやめなかった。たとえ友人たちが彼へ愛情を向けなくなっても、アリスとの愛情に終わりが訪れても、フェイとの関係が終わろうとも、研究者たちと折が合わずとも、家族が本当の自身を愛してくれなくとも、彼は愛することをやめなかった。

もちろん、もう一人の自身とも言えるアルジャーノンに対しては、彼が死して尚も愛情を向け続けている。恐らく、チャーリィにとって、自分自身を愛するように愛した存在は、アルジャーノンだったのだろう。チャーリィの知性は、アルジャーノンに始まり、アルジャーノンに終え、アルジャーノンとの別れで新たな始まりに至ったのだから。

自己の存在を識るには他者からの愛情が必要と知る|ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」を読んで考える

ダニエル・キイスが綴る「アルジャーノンに花束を」は、様々な思考や感情をもたらす。ともすると重度知的障害者が類稀な知能を手にしたIFが語られるだけの物語に見えそうになるが、チャーリィ・ゴードンの報告を通じて描かれる彼の思考や感情、魂の叫びの数々は、人間という一つの存在を多方面から見つめ直す機会を与えてくれ、我々の脳や胸を様々に揺さぶる。

とりわけ、一人の人間が自身の存在を認めるのに他者からの愛情を必要とする真理は、「アルジャーノンに花束を」の主要なテーマの一つでないかと考えさせられるほど、深く、濃く描かれている。何せ、チャーリィ・ゴードンが自身の心を切り刻みながら葛藤し、求め続けたものなのだ。

「自分がこの世界に存在している」

その事実を確認するのは、実のところそう容易いことではない。なぜ孤独に堪えられずに命を絶つ人間が居るのかと言えば、単純な話、自身の存在が曖昧になるためだ。孤独な状態は、自身がこの世界に生きているのかどうかを見失わせるし、生きている意義を見出せなくなる。

人嫌いな人間は居るし、一人で居る方が気が楽な人間も居るが、それは孤独を愛することを意味しない。そうした人々でさえ、何らかの形で他者の存在を必要としている。その他者の存在の必要性を認識していないだけだ。全く誰からも相手にされない世界で生き続けられる人間は、そう多くない。

目に見える世界だけがすべてでないなどといった話が度々交わされるが、最も見えていないのは自分自身なのだ。何せ、自分の顔一つ、我々は自分の目で直接見ることが叶わない。形の無い心など、当然見えるわけもない。一方で、我々は自分の目で見える世界しか明瞭な形で認識できない。

顔さえ見られない自分自身を認識するには、他者を必要とするのである。当然ながら、その他者とは自分を認識してくれる他者であり、もっと言えば相手をしてくれる他者である。自分を拒む他者相手には、自分自身を認識するのが難しい。

そして、深いレベルで自分自身を認識するには、当然ながら深いレベルで自分を認識してくれる相手が必要だ。そう、つまり、自分を愛してくれる他者の存在、自分に対する愛情が必要なのである。自分が自分として存在している認識を持つ欲求は、恐らく生物として根源的なものだろう。

死んだように生きている人間は数多く存在しているし、死にたいと思いながら生きている人間も数多く存在しているが、死者のように扱われたい人間はそう多くない。ゆえに我々は、他者からの愛情を程度の差こそあれ、心の底から欲している。自分が自分で在るためにだ。

これは知能の話ではない。「アルジャーノンに花束を」で描かれるチャーリィ・ゴードンの報告から読み取れるように、知能がどれだけあろうとなかろうと、人は他者からの愛情を求めている。なぜならば、自分がこの世界に存在していることを肯定するには、他者からの愛情が必要だからだ。

そうでなくても、自分がこの世界に存在していると認識するためには、他者から受け入れられる必要がある。この点において、チャーリィ・ゴードンは、母親による拒絶を受け、欲求が満たされていない。もっとも家を放逐された後、パン屋の友人たちによって、彼は愛情を得るに至り、それを最後まで大切なものだと語っている。

一方で、母親に拒絶され、彼女から愛情を受け取れなかった事実は、チャーリィを最後まで悩ませている。刹那の救いも結局は打ち砕かれた。その後彼の崩壊に拍車がかかっていくのは象徴的とも言えるだろう。とりわけ、アリスとの決別後、独りになった後の急降下は相当なものである。

他者から拒まれ、他者を拒んだ行く末がどうなるか、と考えると、いかに孤独が恐ろしいかを感じ取れるが、少なくとも「アルジャーノンに花束を」の物語にそれを照らすのは、あまり適切とは言えないかもしれない。チャーリィの崩壊自体は既定路線であり、それが緩慢か急激かの差なのだから。

一方で、現実問題として、孤独に走った人間の行く末は悲惨である。「アルジャーノンに花束を」では、あくまでチャーリィの知能の崩壊が描かれているが、現実世界においては、孤独の行く末にあるのは破滅である。だからこそ、他者を受け入れ、他者に受け入れられるのが大切なのだ。

他者からの愛情を失えば、あるいは得られなければ、自分という存在の認識が曖昧になる。自分一人で生きているわけでないし、自分一人だけの世界でないなどとよく言われるが、それは何も自己中心的な生き方を咎めているのみならず、孤独になるとそもそも自己の存在を見失い、以って破綻を招くので、考えや振る舞いを改めた方が良いと諭す思いやりの言葉なのである。

「アルジャーノンに花束を」は、終始他者からの愛情がどれほど尊いもので、生きる上で必要なものなのかを教えてくれる。単なる重度知的障害者が高度な知能を持ったIFの世界を描いただけの物語ではない。決して幸福な結末とは言えないかもしれないが、救いのない結末というわけではない。何より前向きな結末だからこそ、我々に多くの示唆を与えてくれる。この機会に、ぜひ一度読んで欲しい。


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蛇足:ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」を読んで一人の人間として得た読書記録ではない感想

蛇足になるが、上述した読書記録を差し置いて、単純な筆者個人の感想について少しだけ書きたい。

「アルジャーノンに花束を」を読むに至ったきっかけ

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