灯った火を絶やさない意義|東日本大震災を振り返り追悼する
私は自分を嫌ってくれる人を好む、歪みを通り越して壊れた性質を有しているのですが、何もそれは嗜虐的嗜好なわけではなく、自分を嫌ってくれる人の方が自分という人間を具に見て考え評価してくれているように感じられるからで、とどのつまりそれはどうしようもない程に自分という人間を肯定できない、自己愛の欠如によるものだと思います。
そんな話をすれば、いやはや何とも奇妙な人間も居るものだと思われるかもしれないのですが、よくよく考えてみると、3月11日に海を見ながら黙祷を捧げたり、想いを馳せたりするのも中々どうしてそうした歪み、いや壊れた性質を有しているようにも思います。何せ海は、多くの命と街を形作っていた多くの存在を奪い去った仇敵です。
見たくない。目を背けたい。そう考える方が自然で、そう考えるのが素直で、歪みのない真っ直ぐな人の在り方ではないかと思います。しかしながら、たとえば戦後に空を見上げて黙祷する人が居たように、もっと身近なところで言えば、遺骨を納めた墓石を前に拝む人が居るように、人が誰かを悼むとき、あるいは想うとき、はたまた祈るとき、人は死の在り処を向くものなのかもしれません。
文字通り、死と向き合う。だから東日本大震災が発生した3月11日に海を向いて黙祷を捧げるのは、そうした死と向き合う人々の強い意志の表れなのかもしれない。そんな考えを抱いた2026年3月11日の午後について、今回のnoteでは書こうと思います。ところで誤解して欲しくないのですが、海を向かない人が押しなべて死と向き合っていない、強い意志を示していないといった話ではありません。
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2011年3月11日とそこからの15年を改めて考える
東日本大震災から15年。3月11日が訪れる度に黙祷を捧げていたけれども、大抵部屋で独り、仕事の合間に祈るばかりで、多くの人々と共に追悼施設で祈るといった行為をして来なかった。全くと言って良いほど、して来なかった。そもそも常日頃から独りで居るばかりだから、独りで祈るのに不思議さはない。
共に祈る人が誰一人居ない。その程度の話とも言える。けれど一方で、多くの人々と共に追悼施設のようなちゃんとした場で黙祷をして来なかった事実が、長らく胸の中でつかえ、靄々していた。義務を果たしていないような、現実から目を背けているような、そんな居心地の悪さ、据わりの悪さがあった。
加えて、私はどこか陸前高田市で祈りを捧げる行為を避けてきたきらいがあり、確かにふらっと東日本大震災津波伝承館を訪れはするものの、何となしに祈りを捧げるのに躊躇いに近い何かを感じていて、結果的に祈る行為をせずに生きてきた。
それが何故かは未だに分からないけれども、避けていたのは確からしく思えていた。もっとも私は陸前高田市に住んでおらず、住んだ経験も有していなかったわけで、そこで祈らないのは不思議でも何でもない。さりとて、東日本大震災以前、多くの人々のお世話になったのは事実としてあり、やはりそうした土地で祈らないのは、居心地の悪さがあった。
2026年3月11日で、東日本大震災から15年になる。そうした節目に、こうした負い目のようなものは解消と言おうか卒業したいと感じた。手前勝手に抱いていた躊躇いのようなものではあったし、気持ちの持ちよう次第でどうとでもできるものではあったけれど、15年という機会は、何だか追い風のような、背中を押してくれるような理由に感じられた。
2011年3月11日を思い返す
陸前高田市で追悼する前に、大船渡市内において2011年3月11日に津波を目にした場所を訪れた。かつて海に沈んだ町は、元通りと言わないまでも、落ち着きを取り戻した景色が広がっている。といっても山火事の傷が残っているのだけれども。それでも従前の静けさが戻ったように見える。

2011年3月11日。その日は、夜空に浮かぶ星がとかく綺麗だったのを覚えている。
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