月影は果て、祈りは還る 8
第8話 影に沈む導火線
――すべてを憎んだ剣の先に、“祈り”はまだ残っているか?
谷に響く音は、剣が空を裂く音のみだった。
修行の終盤。灰庵の岩場にて、月影は己の影と対峙していた。斬るべきは敵ではなく、心に巣食う“過去”そのもの。
夜明けの陽が山間を染め、己の足元に影が伸びる。
それを一閃で断ち切るたびに、月影の動きは研ぎ澄まされてゆく。
まるで――巫剣の舞。
斬撃のひとつひとつが、何かに祈るようでもあり、何かを拒絶するようでもあった。
「お前の剣は……命を守るために振るえるか?」
かつての師の声が脳裏に甦る。
けれど今の月影は、誰の問いにも答えない。ただ、無音の中で己の影に問い続けていた。
(守る? 何を? 誰を?)
背中など預けたことはない。仲間に守られた記憶など、ない。
だからこそ、月影の剣は“全方位を断ち切る剣”となった。
足元からの奇襲、背後からの刺突、脇からの抜き打ち――すべてを捌く。
それは恐れではない。怯えではなく、許せなかった。誰かを失うという運命が。
岩陰でその姿を見ていた澪は、小さく息を呑んだ。
「……兄さまの剣、まるで……祈るようで、でも……誰にも届いていない気がする」
その夜。
澪は夢を見る。いや、それは夢と呼ぶにはあまりにも鮮明だった。
白く澄んだ空間。静謐な水の流れる音。
その中央に、ひとりの女が立っていた。透き通るような銀髪と、琥珀の瞳。儚げな聖衣をまとうその姿は、まさしく――
アナスタシア・エヴァリス。
かつて灰庵に在りし五人目の聖女。失われた“祈りの象徴”。
『……澪』
その声は、風のように柔らかく、けれど確かに胸に届く。
『あなたの中には、“願い”が宿っている。まだ、誰も穢していない“祈り”が』
「あなたは……兄さまを見ていたの?」
『ええ。あの子は、ずっと祈っているのよ。
でもそれは、斬りつけることでしか届けられない、不器用な祈り。だから――あなたが必要なの』
アナスタシアはそっと澪の額に指を触れさせる。
すると澪の中で何かが目覚めるように、胸があたたかく灯る。
『あなたの手で、彼の剣を“光に繋げて”』
目が覚めた澪は、まだ燃える火の揺らぎの中、柊がそっとかけてくれた毛布に気づく。
自分が、ただ守られる存在ではいられないことを知る。
――その頃、月影は再び四老の前に立っていた。
最後の問答。四人の老剣士たちは、それぞれの“疑い”と“希望”をもって、月影を見据える。
「……あの夜。お前は、なぜ生き残った?」
問いかけたのは、エイドリアン。
月影の拳がわずかに震える。
「……バエルは、俺を殺さなかった。いや、“育てて喰う”ために生かした。俺はそれを知って、なお生き延びた」
「ならば問う。“お前の剣”は、奴の意志か? それとも、お前の意志か?」
月影は静かに答える。
「……俺の剣は、俺のものだ。誰にも喰わせない。焼き捨ててでも、渡しはしない」
四老たちが互いに視線を交わす。
グリーヴの目が、わずかに柔らぐ。
(ようやく“人の心”に踏み込んだか)
そして、夜が深まる――
南方、血泥宮。
その最奥で、バエル、リリス、ヴァルターが集う。深紅の幕の奥、魔の者たちの作戦会議が始まっていた。
「灰庵が動いた。月影の剣、そろそろ完成する頃かしら?」
妖艶な笑みを浮かべるリリスが、唇に紅を引く。
「ねえ、バエル。“あの子”に期待してるの? それとも、ただ弄んでるの?」
「どちらでもないさ、リリス。
彼は、“失ったものすべてを刃に変えた者”だ。そういう者こそ、美しい」
死霊王ヴァルターが口を開く。
「アナスタシアの残滓が動き出したようだな。先手を打っておくべきだろう」
バエルは頷く。そして、ゆっくりと“封印の棺”へと歩み寄る。
「……では、“あの娘”を起こそう。最も美しく、最も絶望に染まった我が器――」
パキッ――
結晶が砕ける音。
その中から現れたのは、かつて月影と戦った少女、否――いまや完全なる悪魔と化した存在。
妖華(ようか)。
血のように紅い髪が揺れ、深紅の瞳が虚空を見つめる。
その唇が、静かに動く。
「――あの人を……壊す。今度こそ、全部……」
月影は夜道を歩いていた。剣を背に、風にまみれて。
その背後から、誰かが近づく。
振り返れば、澪が立っていた。
「……兄さま」
「……何しに来た」
「夢を、見たの。アナスタシア様に会ったの。兄さまの剣を、見てたって」
月影は沈黙する。
「あなたの剣が、すべてを斬るためだけにあるのなら――私は、それを止めたい。
私は……あなたの“背中”を、守るために在りたいの」
風が止まる。月明かりがふたりの間に差し込む。
月影は、わずかに目を伏せ、そして小さく言う。
「……なら、その言葉を忘れるな。
お前自身を守る剣になる。いつか――必ず」
月は、雲間から再び現れる。
そしてその光の中で、澪の小さな祈りが、彼の影を包むように灯っていた。
――月影は、なお歩き続ける。果てに斬るべき敵が在る限り。
そして、祈りはどこかで彼を待ち、還る場所を灯している。
