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その選択は、本当に本人のものか

ある親御さんの話を見かけました。
二十歳の娘に、イギリスへの短期留学を用意したという内容です。

行き先はオックスフォードのサマープログラム。
費用は100万円以上。すべて親が個人手配したものです。

けれど娘さんは、それを望んでいませんでした。
出発前にもかかわらず、部活の合宿や友人との旅行を優先し、準備も進めない。
ついには「嫌がらせでしょ」とまで言われてしまう。

ここだけを見ると、「せっかくの機会なのに」と感じる人も多いと思います。
実際、親としては「良い経験になるはずだ」という確信があったのでしょう。
その気持ちは、決して間違っていない。

ただ、この話の本質はそこではありません。

問題は、
「誰の意思だったのか」という一点に尽きます。

機会の価値と、その機会を誰が選んだかは、まったく別の問題です。
どれだけ客観的に見て優れた機会であっても、
本人の意思なく与えられた瞬間、それは「機会」ではなく「義務」に変わります。

そしてその変換は、受け取る側の感覚の中で、
静かに、しかし確実に起きています。

私はこれを読んで、ある自分の経験を思い出しました。

娘がまだ2歳を過ぎた頃、赤ちゃんモデルとしてスカウトされ、
専属の事務所に登録したことがあります。
カタログに掲載され、撮影にも参加しました。

けれど次第に、違和感を持つようになりました。

これは、この子がやりたいことなのか。
それとも、親である私の意思なのか。

撮影は決して楽ではなく、
移動はすべて電車指定で、小さな子どもにとっては負担も大きいものでした。

結果として、私は辞退することを選びました。

後になって娘にその話をすると、
「やっててよかったのに」と言われました。

それでも、あのときの判断に後悔はありません。

なぜなら私は、
「本人が選んだ経験ではない」という点を重く見たからです。

たとえ娘が後にそれを望んでいたとしても、
2歳の子どもは選択していません。
親が選んでいた。その事実は、結果がどうであれ変わらないからです。

善意は、意思の代わりにはならない。

留学の話も、構造は同じです。

どれだけ価値のある機会であっても、
それが本人の意思に基づいていなければ、意味は変わってしまう。

外から見れば「恵まれた環境」でも、
本人にとっては「押し付けられた選択」になることがある。

そしてそのズレは、結果ではなく感覚として残ります。

成功しても、うまくいっても、
「自分が選んだ」という感覚がなければ、
その経験は自分のものとして根づきにくい。

逆に、たとえ失敗しても、
自分で選んだ経験は、後の選択に活きる土台になります。

この非対称は、見えにくいからこそ、見落とされやすい。

ここで一つ、誤解を防ぐために言い添えます。

「本人の意思を尊重する」とは、
「何もしない」ことではありません。

情報を伝え、構造を見せ、選べる状態を作る。
その上で、決めるのは本人に委ねる。

これが、親としてできることの本質だと考えています。

機会を用意することと、選択を強いることは、
似ているようで、まったく違います。

親ができるのは、機会を用意することです。
しかし選ぶのは、あくまで本人です。

この順番を逆にしてしまうと、
どれだけ善意であっても、違和感として返ってきます。

善かれと思ったことほど、難しい。

だからこそ一度立ち止まって考えたい。

それは本当に、本人が選んだことなのか。


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