【読書感想文】小説『父』と私の父
小林恭二の『父』という小説、特に終盤は結構興味深く読んだ。
「人間には無限の可能性がある」とし、だからといってこの常套句は一般に言われているような意味ではなく、人は生涯その可能性と戦わねばならないゆえ、不幸だとする。
「父」も可能性を持った人間だったという。「父」は、可能性を追求し続けた時点で敗北が決定し、だが、可能性を模索し続け、外面的には行動しつつも、内面的には可能性と戦うことに疲れたのではないか、と分析する。そして最晩年「父」は生まれて初めて、将来へ向けての可能性ではなく、人生においてこれ以上ないほど確実なものをつかみ取ろうとしていた―確実なものとはすなわち死である、と作者は述べている。
私はこれをいつものように巨人戦を見ている父の隣に座って読んでいた。
作中の「父」は、庭いじりに飽きた後、突然余生を仏教の勉強に充てると言い出し、モウレツに勉強を始める。私は「お父さんもさ、若かった時みたいに、今後またテツガクっぽいこと勉強すれば?」と言った。仏教の話もしてみた。「一週間とか、2、3日でもいいから、お寺に籠もるのは、やってみたいとは思ってる」と父は言った。テツガクについては言及しなかった。もう、マルクス読んでた若い頃とは違うのかな、私は何となく寂しかった。
作中の「父」は六十を超して、何かを追求し続けることに飽きたか、もしくは新しい自分や新しい生活などどこにもないと気づいたのか、と作者は考える。ならばと「父」は今そこにある自分、今送っている生活を大事に、という考えにも与しなかったようだが、私の父は、どう見ても今はこんな云わばありふれた考えに基づいて生活しているように思えた。
いいのかな、それで。と思った。父は母とともに、私から見ても壮絶な過去を生きてきた。埼玉に逃げてからの20年は、私たち一家にとってひたすらに貧しく、辛く、精神的にも余裕を持てず、家族それぞれに暗い影を落とした。父が今、庭いじりと、再開したトロンボーンの練習に凝っていて、テツガク的なことを考えたり勉強したりしないからといって、それを寂しいと思うのは、私の思い上がりもいいところだ。父の何が悪いというのだ。
蓋然性の余地を残さない、厳然としてある「死」というものについては、父だって、もう考えているだろうし、そのうち「可能性」を捨てても対面しなくてはならなくなる。もしかしたらもう、何か達観しているのかもしれないが、それは誰にも分からない。幸せなら、それでいい。
ゴチャゴチャと考えなくてもいいことは、考えないことだ。父が余生における「可能性」をまだ追求しているのか、疲労したのか、死をつかもうとしているのか、そんなことは、私が考えることではない。父が幸せなら、それでいいのだ。
