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テツガクの小部屋37 中世哲学の精神②

・デカルトにおける例
デカルトは中世ではなく近世だが、ここではその違いはさておき、
「しかし当時私は真理の探求に専念したいと望んでいたので、…また少しでも疑問を挟む余地のあるものは全部、絶対的に虚偽なものとして放棄しなければならないと考えた。それはそうした後で「私の信念」のなかになんら疑う余地のない何かが残るかどうかを見届けるためであった。」

彼の真理の探求の方法は「論証」ではなくて「懐疑」であるという点で中世哲学の方法と異なった新しい方法である。これもさておくとしても、この「懐疑」は明らかに「はじめに」彼の「信念」の中にある事柄に向けられている。つまり「はじめに」個人的な「私の信念」の中に或る事柄(信じられた事柄)が存在していて、次にそれが「懐疑」されているのである。その結果、
「そして<私は考える、だから私は存在する>というこの真理は、懐疑論者のどんな途方もない仮定といえどもそれを動揺させることができないほど堅固で確実なのを見て、私はこれを自分が探求しつつあった哲学の第一原理としてなんの懸念もなく受け入れることができると判断した。」

このときにはすでに最初に彼によって「信じられた」個人的なこの事柄は普遍的な命題・学知に変換されている。(このように彼の「懐疑」は信を知に変換するもう一つの方法である。)

ジルソンの指摘する信から知へという精神は中世に限らず哲学一般の営みの普遍的な原形である。


参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂





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