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『再会』という夢物語

 1980年頃から数年間、母は金子由香利さんの歌を聴きに銀座にあるシャンソン喫茶『銀巴里』に頻繁に通っていた。当時、我が家ではいつも金子さんのシャンソンがCDラジカセから流れていたから、いつの間にか僕も好きになってしまった。
 特に『再会』という曲が好きになった。その曲が流れると母は家事の手を休めるから母も一番好きだったのだろう。当時の両親を二人並べると極めて現実的な夫婦だったけれど、その頃の母一人だけを思い出すとかなりロマンティストだったと思う。
 この『再会』という曲は歌というより語りだ。主人公の女性が昔の恋人と偶然パリの街角で再会するひとときの物語。
 歌自体が囁くような、語りかけるような台詞になっている。
―あれからどれくらい経つでしょう。あなたは元気そうね―
―私は変わったでしょう。少しは大人になったかしら―
―あの方、奥さんでしょ? 素敵な人ね。私に少し似ているわ―
―今の私たちは他人同士なのね。あなたの目には私のことなど何も残っていない。私ってお喋りね。引き止めてご免なさい―
―あんまり懐かしくてお話ししたかったの―
 哀愁を漂わせて小さくこう呟いて再会の幕が閉じる。
―今でもあなたを……愛しているのよ……―
 なんてドラマティックな偶然の再会なのだろう。男冥利に尽きる理想的な映画のワンシーンのようだ。
 僕はこれまでの経験上、女性は別れた男性のことをすぐに忘れ去ってしまう生き物だと承知している。昔のロス・インディオス&シルヴィアのヒット曲『別れても好きな人』というのは男の幻想であって、それをもじった「別れたら次の人」というのが、ほとんどの女性の本質だとさえ思っている。
 男性の方が女性よりずっと未練がましい生き物だ。八年前に付き合っていた女性からバレンタインデーにチョコレートと一緒に小さなサボテンをもらった。
「たまにでいいので水を遣ってください。そうすれば可憐な花をつけます。愛は永遠で枯れることはないでしょう」
 そのようにメッセージカードに書いてあった。
 ところが今は枯れてしまっている。だけど、もう一度水を遣り始めれば生き返ってくれるんじゃないかと思い、僕は今もなお捨てられずにいる。
 一方、女性の方は十年前にブレイクした女性ピン芸人ブルゾンちえみのネタのように「味のしなくなったガム」はすぐに思い出とともに紙に丸めて捨てて、「新しいガム」が嚙みたくなるものだ。踏ん切りがよいというか切り替えが早いというか。それはそれで恐れ入谷の鬼子母神だ。元カレにもらった指輪でさえ思い出を消し去るように、すぐにフリマサイトに出品して現金化するらしい。
 今でもボクは別れた彼女が住んでいる新小岩に行くことがあるとルミエール商店街でキョロキョロと彼女の姿を探してしまう。八年経って今どんな女性になっているのか、幸せであって欲しい。そう願っているからこそ、それを確認したい一心だ。
「もし街で出くわしたら話しかけてくれなくていいから、笑顔を見せて欲しい」
 別れ際に僕はそう彼女に云った。
 でも、『再会』の曲のようにロマンティックな場面にはきっとならないだろう。そんな約束も僕のことさえも忘却の彼方にあるのではないか。彼女の表情には一ミリの変化も起きないと推測している。それが容赦ないほど哀しい現実なのだ。
 かつて1980年代後半のバブル期には『三高』という言葉がもてはやされた。女性が結婚相手の男性に求める三つの理想条件は「高学歴・高収入・高身長」だった。平成期にはバブル崩壊や女性の社会進出により「低姿勢・低依存・低リスク・低燃費」の『四低』が流行り、令和になっては性格や価値観の一致が重視され、「生活力・生存力・生産力」の『三生』や「安心・安定・安らぎ」の『三安』が求められるようになってきているという。
 Z世代の若者は男性、女性ともにピュアな恋愛感情そのものが極めて薄くなっているのではないかと危惧している。我々が青春を過ごした昭和は古き良き古の昔で、ロマンティックな再会のドラマはもはや夢物語になってしまったのかもしれない。 (了)

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