教科書にない学びは、教師の姿から始まる。
教師として働いているから、活躍していることになるのか。
メディアに紹介されたから、活躍していることになるのか。
最近、そんなことを考えることがあります。「活躍しているかどうか」は、本来、自分自身が決めることなのかもしれません。誰かから「あなたは活躍していますよ」と言われたから、活躍しているわけでもない。反対に、誰かから評価されなかったからといって、活躍していないわけでもない。
「誰でも活躍できる社会」という言葉を、よく耳にします。けれど、その言葉を日常生活の中で本当に実現できているのかと問われると、簡単ではないとも感じます。活躍するとは、いったいどういうことなのだろうか。
目立つ成果を出すことだけが、活躍ではない。表彰されることだけが、活躍でもない。新聞やテレビに取り上げられることだけが、活躍でもない。
その人が、その人らしく、今いる場所で力を発揮できること。
誰かと関わりながら、少しでも前に進めること。
自分のペースで、自分の命を動かしていくこと。
活躍の形は、一つではありません。大切なのは、誰かが決めた「活躍」の型に人を当てはめることではなく、その人がその人らしく力を発揮できる場を、どうつくっていくかだと思います。
長年、私にとって「普通学級の担任になること」は、大きな夢であり、目標でした。学級担任という仕事は、教科を教えるだけではありません。朝の会、帰りの会、学級通信、保護者対応、生徒指導、学校行事、進路指導、日々の小さな声かけ。そのすべてを通して、子どもたちと関わり、学級という集団を育てていく仕事です。
障害があるからといって、学校運営の一部から外れるのではなく、「配慮されるだけの存在」ではなく、学校の教育活動をつくる一員として貢献できることを、自分自身の働き方を通して示してきたように思います。
昨年度は台湾修学旅行の引率にも参加しました。障害のある教師にとって、校外学習や修学旅行の引率は大きな課題の一つです。特に海外修学旅行となると、移動、宿泊、食事、介助、緊急時の対応、現地での動きなど、考えなければならないことがたくさんあります。不安がなかったわけではありません。最初から「無理」と決めてしまえば、可能性はそこで止まってしまいます。必要な支援は何か。どこにリスクがあるのか。誰と役割を分担するのか。自分はどの場面で力を発揮できるのか。子どもたちにとって、担任である自分が一緒に行くことにどのような意味があるのか。その一つ一つを丁寧に考え、周囲の方々の協力をいただきながら、台湾修学旅行の引率は実現しました。
この経験は、私にとって大きな挑戦でした。同時に、「障害があるからできない」という先入観を問い直し、新たな可能性を示す実践でもあったと思います。
共同通信配信の記事
「夢の担任 脳性まひの教諭 新たな春」
が、英文記事サイトにも掲載されました。日本の学校現場で生まれた一つの実践が、国境を越えて発信されました。https://english.kyodonews.net/articles/-/75545
脳性まひのある日本の教師が、念願の学級担任になったこと。昨年度、台湾修学旅行の引率にも挑戦したこと。その事実が、日本国内だけでなく、海外の読者にも届く可能性が生まれてきたことです。
世界のどこかにも、障害がありながら教師を目指している人がいるかもしれません。教師として働いているけれど、「自分に担任は無理なのではないか」と感じている人がいるかもしれません。あるいは、障害のある教職員をどう受け入れ、どう支えていけばよいのかを考えている学校関係者や行政関係者がいるかもしれません。
障害がある教師も、必要な支援や合理的配慮が あれば、学校現場で役割を果たすことができる。担任や学校行事への参加も、最初から不可能と決めつけるのではなく、方法を考えることができる。障害のある教職員の存在は、学校にとって負担だけではなく、教育的な価値をもたらすことがある。そうしたメッセージが、英語を通して海外にも届く可能性があることに、大きな意味を感じています。
文部科学省の通知では、児童生徒等にとって、障害のある教師等の教育関係職員が身近にいることには、障害のある人への理解が深まること、障害のある児童生徒等にとってロールモデルとなること、共生社会に関する考えを広げ深める経験となることなどの教育的意義が期待されると示されています。障害のある教師が教室にいることは、「珍しいこと」ではありません。子どもたちにとって、共生社会を具体的に考える入口になります。障害のある人が、支援を受けるだけではなく、教師として誰かを支え、学級をつくり、学校行事に関わっている。その姿そのものが、子どもたちにとって学びになります。
文部科学省の実態調査では、教育委員会における障害者雇用の実雇用率は令和元年度の1.88%から令和6年度には2.41%へ上昇している一方、令和6年度時点では法定雇用率2.7%に届いていないことも示されています。さらに、教育職員だけで見ると実雇用率は1.28%であり、事務職員等の10.98%と比べても低い水準にあります。この数字は、障害のある教育職員の活躍推進が、まだ途上にあることを示しています。
障害のある学生の教員免許取得者数は毎年増加傾向にあります。しかし、障害のある学生のうち教員免許を取得する学生は約3.5%であり、全体に比べて低い水準にとどまっています。障害のある学生が教員を目指すことの可能性や選択肢を諦めないよう、採用だけでなく養成段階も含めた総合的な取組が必要です。障害のある教師の活躍推進は、採用試験の段階だけで考える問題ではありません。障害のある高校生や大学生が「自分も教師を目指してよいのだ」と思える環境を整えることから始まります。
今回の英文記事掲載は、その具体的な姿が発信されたことで、これから教師を目指す障害のある学生にとって、一つのロールモデルになる可能性があります。
「自分にもできるかもしれない」
「最初からあきらめなくてもよいのかもしれない」
「支援や配慮を受けながら、教師として働く道もあるのかもしれない」
そう思える人が、一人でも増えるなら、今回の記事には社会的な意味があると思います。合理的配慮とは、誰かを特別扱いすることではありません。その人が本来持っている力を発揮するために、環境を整えることです。
「できないから外す」のではなく、
「どうすれば役割を果たせるのか」を考えること。
障害者雇用は、数字を満たせば終わりではありません。採用されることは入口にすぎません。本当に大切なのは、その後、その人が職場で力を発揮できるかどうかです。
障害者は、ともすると「お可哀そう」「哀れだけれど頑張っている」という、上から目線の同情論で語られがちです。もちろん、支えてくださる方々の善意や励ましを否定したいわけではありません。けれど、障害のある人を「頑張っている存在」「感動を与える存在」としてだけ消費してしまう見方には、危うさがあります。障害のある人も、一人の人間です。支援を受ける存在であると同時に、誰かを支える存在でもあります。配慮される存在であると同時に、社会に問いを投げかけ、制度や環境の改善を求める主体でもあります。
障害のある人が「かわいそうな人」「頑張っている人」として静かに語られているうちは受け入れられても、人間としての権利を主張し、合理的配慮を求め、自分の考えを言葉にし始めると、途端に風向きが変わることがあります。
「わがままではないか」
「特別扱いを求めているのではないか」
「そこまで言うのは言い過ぎではないか」
「分際をわきまえていないのではないか」
そこに差別の本質があると思います。障害のある人を、同情の対象としてなら受け入れる。けれど、権利をもつ主体として、自分の言葉で語り、社会に変化を求める存在になると、受け入れがたくなる。それは、本当の意味での共生ではありません。
私は自分の歩みを「感動の物語」としてだけ語られたくありません。個人の努力物語ではなく、学校現場が多様性、インクルーシブ教育をどのように実現していくのかを考えるための実践であります。
一人で完璧でなくてもよい。助けを求めることは、恥ずかしいことではない。困っている人を支えることは、特別なことではなく、当たり前のこと。違いがある人も、集団の中で大切な役割を担うことができる。こうした学びは、道徳の授業で一時間扱うだけでは、なかなか深く身につきません。日々の学校生活の中で、何度も見て、感じて、関わることで、子どもたちの中に少しずつ根づいていくものです。
子どもたちに、どのような姿を見せているのか。困難に出会ったとき、どう向き合っているのか。助けを求めることを、恥ずかしいことではなく、自然なこととして示せているのか。支えられながらも、誰かを支える側に立つ姿を見せられているのか。
私の26年間の歩みが、誰かにとっての「できるかもしれない」につながることを願っています。そして、障害のある教職員が「配慮されるだけの存在」ではなく、教育現場で価値を生み出す存在として、もっと自然に認められていくように活動していきます。
教科書にない学びは、教師の姿から始まる。
