生徒は、教師の障害ではなく、毎日の授業を見ている。
数学教育実践研究会が発行する『算数・数学の授業』に、私の授業実践「モンティ・ホール問題から、確率のよさを味わおう――全国学力・学習状況調査問題を授業化した実践」が掲載されました。この実践は、モンティ・ホール問題を題材に、生徒たちが実験や話し合いを通して、確率を根拠に考え、判断することのよさを味わうことを目指した授業です。全国学力・学習状況調査の問題を、正解を求めるだけの問題として扱うのではなく、生徒が問いをもち、予想し、実験し、友達と考えを交流しながら、自分の判断をつくり直していく授業として再構成しました。
私が数学教育実践研究会と出会ったのは、山形大学教育学部で数学を学んでいた大学3年生のときでした。将来、数学教師になることを目指していた私は、数学そのものを深く学ぶだけでなく、「生徒が分かったと感じる授業とは何か」を考えたいと思い、数学教育研究室を選びました。そこで、指導教官のM先生と出会いました。卒業論文の指導を受ける中で、数学教育とは、単に分かりやすく説明する技術ではなく、教材の価値や生徒のつまずき、発問による思考の変化を丁寧に捉える研究であることを学びました。そのM先生から、全国の算数・数学の教師が実践を持ち寄り、学び合う数学教育実践研究会への参加を勧めていただきました。現場の先生方が、授業の成果だけでなく課題も率直に語り合う姿は、大学生だった私に強い刺激を与え、その後の授業づくりの原点となりました。

私は中学校の数学教師となりました。日々の授業実践を積み重ねる中で、数学教育実践研究会に何度も参加し、自分の授業を発表してきました。実践をまとめることは、自分の授業を客観的に振り返ることでもあります。なぜ、この教材を選んだのか。なぜ、この順序で授業を進めたのか。生徒は、どのように考えを変えていったのか。教師の支援は適切だったのか。別の問いかけや展開はなかったのか。
研究会の全国大会で発表するたびに、自分では気づかなかった授業の価値や課題を教えていただきました。他の先生方の実践から刺激を受け、また次の授業へ向かう力もいただいてきました。
今回掲載された授業のテーマは、「確率」です。確率と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。サイコロ、くじ引き、天気予報、宝くじ、ゲームなどを想像する人が多いかもしれません。学校の数学では、起こり得る場合を整理し、その中で目的とする場合がどれだけあるかを考えて、確率を求めます。しかし、確率の学習で大切なのは、計算方法を覚えることだけではありません。私たちの生活や社会には、結果が確実には分からない出来事がたくさんあります。そのような不確定な事象を、印象や感覚だけで判断するのではなく、数を用いて捉え、より合理的に判断できるところに、確率を学ぶよさがあります。
私は確率の単元を指導するとき、生徒に「確率を求められた」というだけでなく、「確率を使えば、判断の根拠を説明できる」「直感だけでは分からないことを、数学によって確かめられる」という実感をもたせたいと考えてきました。そこで授業化したのが、モンティ・ホール問題です。
授業では、地域のイメージキャラクターである「ニャンパチ」を登場させ、「ニャンパチゲーム」と名付けました。
学習課題
3枚のトランプを用意し、1枚を当たり札、2枚を外れ札とします。ニャンパチは、3枚の札の位置を事前に知っています。挑戦者は、その中から1枚を選びます。すると、ニャンパチは、挑戦者が選ばなかった残り2枚の中から、外れ札を1枚見せます。そのとき、最初に選んだ札をそのままにするのか。それとも、残ったもう1枚の札に替えるのか。どちらが当たりやすいのでしょうか。
多くの人は、外れ札が1枚取り除かれ、残りが2枚になったのだから、「替えても替えなくても、当たる確率は2分の1で同じ」と考えます。しかし、実際には違います。最初に選んだ札を替えない場合、当たる確率は3分の1です。札を替える場合、当たる確率は3分の2になります。つまり、札を替えた方が、当たる確率は2倍になります。この結果は直感に反するため、大人であっても迷います。だからこそ、生徒の「本当にそうなのか」という問いを引き出しやすい教材でもあります。授業を行った学級は、男子13人、女子12人、計25人の学級でした。互いに教え合い、友達の見方や考え方のよさを認めながら、協力して学習する姿が見られました。
授業の前には、数学学習に関するアンケートと、小学校で学んだ「場合の数」のレディネステストを実施しました。アンケートからは、数学を好きだと感じ、一生懸命に学習している生徒が多い一方、「単元によって好き嫌いが変わる」と考えている生徒もいることが分かりました。「場合の数」については、「表や図をかくのが楽しい」と答える生徒がいる一方、「図のように分けていくと、だんだん分からなくなる」と感じている生徒もいました。レディネステストでは、多くの生徒が既習内容を理解していたため、その知識を生かしながら、場合の数と確率を結び付けて考えられる授業を構想しました。
授業の導入では、複数の教師で「ニャンパチゲーム」を演じました。言葉だけで説明するのではなく、実際にゲームを見せることで、生徒がルールを理解し、問いに引き込まれるようにしました。その後、生徒一人ひとりに、「替える」「替えない」「どちらも同じ」のいずれかを予想させました。名前を書いたネームプレートを黒板に貼ることで、全員の考えを可視化しました。正解を当てることが目的ではありません。まず、「自分はどう考えるのか」を決めることを大切にしました。
次に、4人グループで実験を行いました。ニャンパチ役、挑戦者役、記録者、観察者の役割を決め、役割を交代しながらゲームを進めます。「替えない場合」と「替える場合」に分け、それぞれ1人3回ずつ、6班合計で72回の試行を行いました。実験を続けると、「替える場合」の方が、明らかに当たりやすいという結果が表れ始めました。
「同じだと思っていたのに、替えた方が当たっている」
「これは偶然ではないのかな」
「回数をもっと増やしたら、どうなるのだろう」
教室の中に、驚きと疑問が生まれました。そこで、生徒たちは実験結果を基に、最初の予想を振り返りました。考えが変わった生徒は、ネームプレートを貼り替えてもよいことにしました。一度決めた考えを変えることは、恥ずかしいことではありません。新しい事実や友達の説明に出会い、自分の考えを見直すことは、学ぶ上で大切なことです。この授業では、生徒が判断する場面を段階的に3回設定しました。1回目は、ゲームの内容を理解し、直感を基に予想する場面です。2回目は、実験結果を受けて、自分の予想を振り返る場面です。3回目は、確率を求め、その値を根拠として最終的に判断する場面です。
直感、実験、数学的な説明という学びの過程を、生徒自身が経験できるようにしました。グループで話し合う中で、生徒は「最初に当たりを選ぶ確率は3分の1」「最初に外れを選ぶ確率は3分の2」と整理していきました。最初に当たりを選んでいれば、札を替えると外れます。しかし、最初に外れを選んでいれば、ニャンパチがもう1枚の外れ札を見せるため、札を替えれば必ず当たります。最初に外れを選ぶ確率は3分の2です。したがって、札を替えた場合に当たる確率も3分の2になります。生徒は、実験で起きた現象を、確率の値によって説明していきました。

授業を参観した先生方からは、「導入が魅力的で、生徒が課題に取り組みやすい雰囲気ができていた」「グループ活動に役割があり、全員参加型の授業になっていた」「ネームプレートによって自己決定の場が生まれ、全員の予想が可視化されていた」といった感想をいただきました。また、「予想と異なる結果が出たことで、驚きや楽しさが生まれていた」「『数学ってすごい』『数学っておもしろい』という声があり、探究的な授業になっていた」という評価もいただきました。一方で、「時間が許せば、すべてのグループの考えを聞いてもよかった」「まとめの場面で、なぜネームプレートを変えたのかを尋ねると、生徒の学びがより明確になったのではないか」という意見もいただきました。
授業は、実践して終わりではありません。参観者の意見や生徒の振り返りを通して、もう一度捉え直すことで、次の授業改善につながります。授業後の生徒の振り返りには、印象的な言葉がありました。
「最初の予想と違っていて、楽しかった」
「確率を求めることは、説得力があってすごい」
「確率で考えることは大切だけれど、最後は自分で判断していきたい」
授業の最後には、一人を除くすべての生徒が「替える」を選びました。授業の振り返りには、多くの生徒は、「当たる確率が2倍になるから、替えた方がよい」と記述していました。一方、「替えない」を選んだ生徒は、次のような趣旨のことを書いていました。
「替えた方が当たる確率は2倍になるけれど、最初に選んだことを貫き通したい」
数学的には、替えた方が当たる確率は高くなります。しかし、その生徒は確率を理解した上で、あえて自分の考えを貫くことを選びました。私は、この判断も大切にしたいと思いました。数学は、人に一つの行動を強制するものではありません。数学によって得られた情報を根拠として、最後にどう判断するのかは、一人ひとりに委ねられています。
確率は、未来を確実に言い当てるものではありません。確率が高いからといって、必ずその結果になるわけでもありません。しかし、不確定な状況の中で、より納得できる判断をするための大切な材料になります。
全国学力・学習状況調査や県学習状況調査については、さまざまな意見があります。学校や教師、生徒を点数によって序列化することにつながるのではないか。平均点を過度に意識することで、教育の目的が狭くなるのではないか。そのような批判があることも理解しています。私自身も、学力調査の平均点だけで学校教育や教師の力量、生徒の学びの全体を評価できるとは考えていません。テストで測ることのできない力は、たくさんあります。友達の考えを大切にすること、自分の言葉で問いを表現すること、失敗しても粘り強く取り組むこと、困っている人に声を掛けることなどは、点数だけでは十分に表せません。それでも私は、学習状況調査の結果を、自分の指導を振り返るための一つの値として捉えています。
数字に一喜一憂するためではありません。生徒がどのような問題を理解できていたのか。どこにつまずいていたのか。授業で大切にしてきたことが、生徒の力として表れているのか。反対に、十分に扱えていなかったことは何か。それらを考えるための資料です。
全国学力・学習状況調査では、私が担当した学級の数学の平均点が、県平均と全国平均を上回ったことがありました。しかし、すべての設問でよい結果だったわけではありません。特に落ち込んでいたのが、「正しくないことを説明する方法」を問う設問でした。この結果を見たとき、私は自分の授業を振り返りました。授業では、「この考えが正しい理由を説明しよう」「この式が成り立つ理由を考えよう」と、正しいことを説明する活動に力を入れていました。その一方で、誤った考えのどこに問題があるのか、なぜその説明では不十分なのかを考える活動は、十分ではありませんでした。生徒ができなかったというよりも、私の授業で十分に経験させていなかったことが、結果として表れたと思いました。この結果を受けて、「この説明のどこが正しくないのか」「この考えは、どのような場合に成り立たなくなるのか」という問いも取り入れるようになりました。正解を説明するだけでなく、誤りを分析し、修正する力も育てたいと考えたからです。
このように、学習状況調査は、私にとって授業を映し出す鏡の一つです。よい結果が出たときには、生徒の努力と授業の成果を確認します。課題が見つかったときには、次の授業づくりに生かします。県学習状況調査でも、私が教えてきた数学の結果が連続してよかったことがありました。担当した学年の平均点は、県平均を7.6点上回りました。また、「数学が好きですか」という質問に肯定的に答えた生徒の割合も、県平均を10ポイント上回っていました。
学力調査の結果は、何よりも生徒自身の努力によるものです。家庭で支えてくださった保護者の力もあります。学年や学校の先生方が、生徒を支えてきた積み重ねもあります。教師一人の力だけで、生徒の学力が育つわけではありませんが、それでも、授業を担当してきた教師として、その結果を自分の指導と無関係とは考えていません。生徒が考える時間を確保したこと、友達の考えを聞き合う場をつくったこと、間違いを否定せず、考え方を共有してきたこと、分からないままにしないよう繰り返し支援したことの積み重ねが、生徒の学力や数学への意欲に、何らかの形でつながったのではないかと思っています。学力のベースにあるものは、生徒の学ぶ意欲です。そして、学ぶ意欲を育てる場は、日々の授業です。学ぶ意欲が育った生徒は、教師に言われたことを行うだけでなく、自ら問いをもち、主体的に学ぼうとすると思います。分からないことがあれば、友達に聞いたり、教科書を読み直したり、別の方法を試したりします。
私はこれまで、そのような生徒たちと出会ってきました。そして、今も出会っています。数名の保護者からは、「いつもあたたかい指導をありがとうございます」「これからも、うちの子どもをよろしくお願いします」という言葉をいただきました。保護者から寄せられた言葉は、数字とは違う形で、日々の授業や生徒との関わりを認めていただいたものと受け止めています。私は脳性まひがあり、言葉を明瞭に発音することが難しいときがあります。手にも障害があるため、黒板に整った文字を素早く書けるわけではありません。生徒は私の言葉に耳を傾けます。黒板の文字を読み取ります。分からなければ聞き返します。そして、友達と考えを交流しながら数学を学んでいます。私は、この教室の風景を尊いのです。そこには、「障害のある教師を助けてあげる」という一方向の関係だけがあるのではありません。教師と生徒が、それぞれの力を出し合いながら、一緒に授業をつくる関係があります。
多様性を受け入れた教室では、一人の違いが、学びを妨げるものではなくなります。相手の言葉を丁寧に聞くこと、分からないときに確認すること、異なる伝え方を工夫することなど、誰にとっても必要な力を育てる機会になります。いわゆる「障害」が、働く上で常にマイナスになるわけではないことを、生徒は日々の姿によって教えてくれています。
私にとって学習状況調査の結果は、「授業において、障害なんて関係ないんだよ」という、生徒からの無言のメッセージのようにも感じられました。もちろん、授業を行う上で、合理的配慮や人的な支援が必要になることはあります。しかし、必要な配慮を受けることと、教師として能力がないことは、全く別の問題です。それにもかかわらず、障害があるというだけで、「あれもできない」「これもできない」「この仕事は任せられない」と、実際の働きぶりを見る前からマイナスに評価されることがあります。見た目だけで、「支援される側」「仕事が十分にできない人」と判断されることもあります。私は、そのような見方を少しでも払拭したいと考えています。
文部科学省の障害者雇用促進プランには、児童生徒にとって障害のある教師が身近にいることにより、障害のある人への理解が深まることや障害のある児童生徒にとってのロールモデルになることが期待されると示されています。さらに、障害のある教師との対話は、児童生徒が共生社会について自分の考えを広げ、深めるための教育資源となり得ること、学校現場に障害のある教師がいること自体が、いわゆる「隠れたカリキュラム」になり得ることも明記されています。障害のある教師が学校にいる価値は、日常の中で、障害のある教師が授業をし、生徒を指導し、同僚と働き、行事に参加する姿そのものが、生徒にとっての学びになります。しかし、教育的な意義があるからといって、授業力や専門性を評価しなくてよいわけではありません。
「障害があるのに頑張っている」という評価だけでは、教師としての専門性が見えなくなります。障害のある教師も、他の教師と同じように教材研究をし、生徒の実態を考え、授業を改善し、成果と課題を振り返り、明日の授業に生かしています。授業実践や生徒の成長を、教師として正当に評価してほしいと願っています。
学習状況調査の結果がよかったとき、同僚の受け止め方は、大きく二つに分かれるように感じることがあります。一つは、生徒の努力を認めると同時に、私の授業や指導についても評価し、より近い距離で一緒に働こうとしてくれる同僚です。
「どのような授業をしているのですか」
「この問題は、どのように指導しましたか」
「生徒がよく考えていますね」
そのように声を掛けてもらえると、互いの実践を学び合い、学校全体で生徒を育てる関係が生まれます。もう一つは、結果を私の指導と結び付けようとせず、「たまたま、よい結果だったのではないか」「生徒が頑張ったのであって、あなたの指導力ではない」と受け止めているように感じさせる同僚です。もちろん、生徒が頑張ったからこその結果です。そのことに異論はありません。しかし、他の教師が成果を出したときには、その教師の指導も評価するのに、障害のある私が成果を出たときだけ、教師の働きとの関係を否定されるとしたら、そこには何があるのだろうと思います。私の考え過ぎかもしれません。それでも、日常の言葉や態度から、「障害のある教師は、自分より仕事ができないはずだ」という意識を感じることがあります。私を下に見ているのではないか。教師として対等な存在だと考えていないのではないか。そのように感じ、「どうしてなのだろうか」と悩むときがあります。
私が成果を示すことによって、それまでの固定的な見方が揺さぶられるからなのでしょうか。障害のある人を「支援を受ける人」「できないことの多い人」と位置付けることで保たれていた関係が変わることに、戸惑いがあるのでしょうか。友人から、次のように言われたことがあります。
「ガクちゃんの指導や生徒との関わりを認めると、自分の評価を下げることになると感じる人もいるのかもしれない。だから、ガクちゃんの成果を素直に認められないのではないか」
また、別の言葉も心に残っています。
「授業で生徒に力をつけられる教師は、すばらしいです。しかし、どれだけ自分の能力を高めても、それだけでは解消されないのが障害者差別です」
この言葉を聞いたとき、複雑な思いになりました。教師として努力し、授業を改善し、生徒を育てれば、いつか同僚から正当に認められると思いたい自分がいます。一方で、どれだけ成果を積み重ねても、障害者に対する固定観念や差別的な意識が残っていれば、それだけでは評価が変わらない現実もあります。どんなに生徒を育てても、職場で新しい役割に挑戦する機会が与えられない。キャリアを積む機会が限られる。実際の仕事ぶりではなく、見た目や障害の有無によって、できることとできないことを先回りして決められてしまうのなら、悔しく感じます。
障害があるという理由で、常にマイナスから評価され続けるのでしょうか。成果を出しても、それは偶然とされるのでしょうか。障害のない教師と同様に、教師としての評価してもらうことはできないのでしょうか。考えれば考えるほど、職場の中で自分だけが浮いているように感じることがあります。割り切った方がよいのだろうかと思うこともあります。しかし、全てを割り切り、何も言わなくなれば、今ある見方は変わりません。後から学校現場に入ってくる障害のある若い教師や、教師を目指している障害のある学生も、同じ壁に直面するかもしれません。だからこそ、私は悔しさや迷いを抱えながらも、自分の実践を発信していきたいと考えています。学力調査の結果を示して、自分の指導力を誇りたいのではなく、障害のある教師も、専門性を磨き、生徒の学力や学ぶ意欲を育てることができる当たり前の事実を伝えたいのです。
合理的配慮を受けながら働くことと、教師として成果を上げることは両立します。支援を必要とすることと、誰かを支えることも両立します。人は、支援する側と支援される側に、きれいに分けられるものではありません。
生徒は、教師の見た目だけで、その人の指導力を決めません。毎日の授業を通して、その教師が自分とどのように向き合っているのかを見ています。分かるまで説明してくれるのか。間違いを笑わないのか。自分の考えを聞いてくれるのか。努力を認めてくれるのか。生徒は本質を、大人よりも柔軟に見ているのかもしれません。だからこそ、私は生徒に感謝しています。
「数学って、すごい」
モンティ・ホール問題の授業で聞こえた生徒の言葉は、今も心に残っています。私の授業作りの支えになっています。直感とは異なる結果に驚き、実験を重ね、友達と話し合い、確率によって理由を説明できたとき、生徒は数学の力を実感しました。
大学3年生のとき、M先生に声を掛けていただいたことから始まった数学教育実践研究会とのつながりは、教師になってからも続いています。大学生だった私が、現場の先生方の実践に耳を傾けていたように、今度は私が授業実践を語る立場になりました。自分の実践が『算数・数学の授業』に掲載されたことで、教室での一つの試みを、全国の先生方と共有することができました。
一つの授業実践は、それだけで完成するものではありません。誰かに読んでもらい、意見をもらい、新たな実践につながることで、さらに意味をもつと思います。授業実践を発信することは、障害のある教師である私にとって、自分の存在を説明することでもあります。私は、生徒と授業をつくる数学教師であり、教材を研究し、生徒のつまずきを考え、問いを工夫し、授業を改善し続ける一人の実践者です。障害のある教師としての教育的な意義だけでなく、数学教師として、生徒にどのような力を育てようとしているのかにも着目するように発信していきたいと思います。
これからも、障害のある教師として働く自分の姿や授業実践を、これからも言葉にしていきます。
