【創作大賞2025応募作・ミステリー小説】サウザンド・ティアーズ⑥ ~うまくいってるなんて思えた事は一度もない。ただ、涙を流さずに生きるだけで精一杯だ。
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「どこへ向かったらいいんだい?」
「野方」
「そっち方面は不案内だなあ。近くまで行ったら道案内してくれ」
「分かりました」
慶次朗が住んでいるメロウのマンションは、大崎にあるのだが、何となくそれを山野辺に知られたくなかったし、メロウのマンションに普通に帰ってしまうと、メロウ相手にごちゃごちゃとするのは分かり切っていたので、帰りたくなかった。だから、後輩のアキオが住んでいる1ルームマンションを目指してもらう事にした。
車は雨の中、走り出した。
ここは築地なので、どういうルートを辿っても、野方までは一時間弱はかかる。
その間ずっと、山野辺と二人きりなのは嫌だったが、幸い山野辺は運転中なので、激昂したりしないだろうと思った。それに、恵美姉の事や意人の事を話すとなれば、あまり短い時間では話し切れない可能性があるので、一時間ぐらいは丁度いいのではと考えた。
「恵美の遺体だけどさあ」
不躾に山野辺が話し出した。
「ええ…」
「明日の朝、10時までに引き取らなければならないんだ。お前さん、その時間にさっきの病院に来れるか?」
「行きますよ。大丈夫です」
「それと、葬式だが、うちの会社の近くの葬儀場を手配した。そこの霊柩車が引き取りに来てくれるんだ。だから、お前さんは病院からそれに乗ってもらう」
「分かりました」
「喪服、持ってるのか?」
「こないだ栄作さんが亡くなった時に、慌てて買いました。でも、明日の朝は着ていけません」
「何でだ?家に置いてないのか?」
「…」
慶次朗は黙り込んだ。すると、会話が止まった。
赤信号で車が止まった。
雨は本降りのままで、ワイパーが忙しなく動いている音だけが車内に響く。
「今、向かってもらってる野方は、店の後輩の家なんです。」
「何で、自分の家に帰らない?」
「俺が住んでる部屋は、店のオーナーのマンションの一部屋を間借りしている状態で…俺、今日、店を急に出ちゃったんで…大事なパーティだったのに、俺、台無しにしちゃったんで…」
「オーナーに怒られるんだな?」
「多分…」
「じゃあいいや。これから、俺の家に来い。って言うか、俺の会社は東雲にあるんだが、一階が会社で、俺は二階に住んでいるんだ。で、横に別のプレハブが建ってるんだが、そこの一階は、長距離ドライバー用の仮眠所になってる。お前さん、今晩はそこに泊まるといい。後、その建物の二階に、恵美と意人が住んでいるんだ。だから、明日の朝、意人と会えばいいや。な、そうしな?喪服は通り沿いにチェーン店があるから、店が開いたら買いに行けばいいだろう?」
「いいんですか?」
「いいもなにも…仮眠所はいつ、誰が来てもいいように掃除もしてあるし、布団も定期的に干してるから清潔だぜ。ただ、以前のようにうちの会社は羽振りが良くないから、中々、部屋を使う人がいなくて、ちょっと長い事、掃除に入ってないが…それでも。かび臭いとか、そんな事はないはずだ」
「分かりました。じゃあ、そうさせて下さい。助かります」
「分かった。じゃあ、ルート変更だ」
次の交差点で、山野辺の軽バンは右に曲がった。
「意人の事なんだけどな…」
「ええ」
「あんた、若いし、独り者だろう?それに夜の仕事だし…」
「ええ、それが何か?」
「どうだろう、意人は俺が後見人になって、これから成人するまで育てるってのは?」
「どういう事ですか?」
「つまり、意人はこれまで通り、今の家に住んで学校に通うんだ。そうすりゃ、意人は転校しないで済むだろう?あいつ、この春に小学生になったばっかなんで、今転校させるのはかわいそうだと思わねえか?そんで、中学、高校、本人がその気なら大学にだってやってもいい。勿論、その間の、養育費とか教育費は全部俺が持つよ。それをな、お前さんが了承してくれたなら、俺の会社の顧問弁護士立ち合いで、覚書にしてもいい。顧問弁護士って言っても、俺の幼馴染みなんだが、だからと言って、変な不正とかしねえよ。なあ、どうだい?」
どういう事だ?
シンプルに疑問が湧いた。
山野辺は善意の人?それとも裏がある?
分からない…
慶次朗は、迷った。
さっき、山野辺から意人の名前を聞くまでは、意人は慶次朗にとってはいないに等しい存在だ。
意人が生まれた時に出産祝いを出し、さっき山野辺が言った今年の春の入学式用に、新しい服を買ってあげるようにと金を包んだ。それだけしか接点はない。クリスマスプレゼントもお年玉も上げた事がない。クリスマスなんて、ホストにとっては売り上げを上げる最大のチャンスだし、年末年始は、太い客の誰かと旅行に出ているからだ。
意人…
恵美姉の最愛の息子…
「すいません。ありがたい申し出だとは思うのですが、何分今は、混乱しているばかりで、また、もう夜更けで、何だか眠くてたまらないので、お答えするのは葬式の後でもいいですか?」
「ああ、そうだな。それは分かるよ。でも、その方があんたのためにもなると思うんだよな。まあ、善処してくれそうだし、今日はそれでいいや。まあ、考えておいてくれ」
「分かりました。ホント、ちょっと睡魔が襲ってきてるので、着くまで寝てもいいですか?」
「ああ、疲れたんだろう。ゆっくり寝な。着いたら起こすよ」
「ありがとうございます」
慶次朗はリクライニングを倒して、目を瞑った。
勿論寝たりしなかった。
ただ、山野辺の申し出の事を考えた。
車は、30分ほどで会社に着いた。
工場が建ち並ぶエリアに、山野辺の会社はあった。
着くと、山野辺が仮眠所へ連れて行ってくれた。
仮眠所にはありがたい事にシャワー室があり、レンタルのパジャマや予備の下着まであった。
山野辺は一通り説明すると、家に帰っていった。
慶次朗はプレハブ棟の前で彼を見送った。
彼の家は、本当に会社の二階にあるようで、彼は外階段から二階に上がっていった。
すると、二階の右側の窓に明かりが灯った。
そこの電気はすぐに消えた。
さっさと歯を磨いて、寝室へ入って行ったのだろうと思った。
気になるのは左端の窓だ。
レースのカーテンだけは閉まっているので、中の様子は見て取れないが、とにかく明るい。
それも不気味に赤く明るいのだ。
何なんだ?
慶次朗は不気味に思ったが、それをずっと見ていたりはしなかった。
とにかく眠くてたまらなかったからだ。
一度吐いたのでまだマシだが、それでも慶次朗は沢山飲んでいたし、色んな事がいっぺんに起きて、心も身体もクタクタなのだ。
まあ、いいや。もう寝よう。
そう自分に言ってから、慶次朗は仮眠所の中に戻った。
