漱石「こころ」考察40 (メモ)天智天皇への皮肉
1、「成立した例のない」?
気になったので備忘録的に記載。
「こころ」(大正三年=1914年連載)に、不自然な言い回しが出て来る。
先生が「私」に宛てた長い長い手紙である「下 先生と遺書」。
若き日の先生が叔父から従妹との婚姻を要請され、それを断った場面
私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前勧められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心の当人を捕まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹に当る女でした。
(略)
私は小供のうちから市にいる叔父の家へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹の間に恋の成立した例のないのを。
(※ 著作権切れにより引用自由です)
「兄妹の間に恋の成立した」「例のない」と。
そりゃ近親相姦はタブーであるし数は少ないだろうが、「例のない」はおかしいであろう。どこかには兄妹の恋もあるだろうし、兄妹間の(疑似)恋愛を描いたアニメやゲームもある。
歴史上の人物であれば、645年の大化の改新で蘇我入鹿を暗殺した、天智天皇(中大兄皇子)である。
天智天皇については、妹、しかもまだ母親違いの妹であれば当時は問題なかったようだが、同母妹(間人皇女=はしひとのひめみこ)と関係を有していた、とする説もある。
2、十干十二支(じっかんじゅうにし)
なお最近では、暗殺事件後の政治改革のほうを「大化の改新」、蘇我入鹿暗殺事件のほうは「乙巳(いっし)の変」というらしい。
ちなみに「乙巳」というのは、干支(えと)の十二支に、さらに十の組み合わせを重ねた「十干十二支」(じっかんじゅうにし)の一つである。60年に一回の組み合わせで回ってくる。
来年(2026年=令和8年)は午年(うまどし)であるが、これが「丙午(ひのえうま)」にあたると聞いたことのある人もいるだろう。丙午も、十干十二支の組み合わせであり、60年に一度廻ってくる。
知人に「妻が丙午の生まれ」という人がいた。つまりその人の奥さんは、2026年に120歳になるか、もしくは〇〇歳になるということである。
大化の改新に話を戻すと、=乙巳の変の「乙巳」の「巳」は、「巳年」(みどし・へびどし)の「巳」である。
ここから、「大化の改新のあった年の干支は?」の問いがすぐわかる。645年の干支を指を折って勘定しなくとも、巳年だと一瞬でわかる。
このように昔の出来事は「十干十二支」の組み合わせで表現されていることもあり、そこから「あの出来事があった年の干支」がすぐわかる。
大化の改新とも関連する「壬申の乱」があった672年は、申年である。
戊辰戦争(1868年=途中から明治元年)勃発は辰年、甲子園球場の設立の1924年(大正13年)は子年である。
ちなみに今年、2025年=令和7年は巳年であるが、645年から1380年後であり、60年に一回の周りなので、大化の改新から数えて23回目の「乙巳」である。というわけでみんなでクーデターを(
3、「行人」でも同じ不自然
話を漱石作品に戻すが、「こころ」の「兄妹の間に恋の成立した例のない」と同様に不自然に例外を認めない言い回しが、「こころ」の前作である「行人」(大正元年=1912年連載)にも出てくる。
主人公兼語り手・長野二郎の述懐
しばらくしてから彼は今までの快豁な調子を急に失った。そうして何か秘密でも打ち明けるような具合に声を落した。それでいて、あたかも独言をいう時のように足元を見つめながら、「これであいつといっしょになってから、かれこれもう五六年近くになるんだが、どうも子供ができないんでね、どういうものか。それが気がかりで……」と云った。
自分は何とも答えなかった。自分は子供を生ますために女房を貰う人は、天下に一人もあるはずがないと、かねてから思っていた。しかし女房を貰ってから後で、子供が欲しくなるものかどうか、そこになると自分にも判断がつかなかった。
「子供を生ますために女房を貰う人は、天下に一人もあるはずがない」、これも同じく不自然な表現である。そりゃ数は少ないし個人的にそれをどう感じるかは別として、そういう人たちが「天下に一人もあるはずがない」わけはないだろう。
私はどこかでこの表現について、大正天皇が明治天皇の側室の子であること、もしくは大正天皇から皇室も側室を持たないことになったが、そのために皇太子時代のお妃選びは「健康な女性であること」を最重視して行われたことへの、皮肉ではないかと書いた。
ちなみに「行人」は、書いたように大正元年の連載である。
「天下に一人もあるはずがない」(行人)
「成立した例のない」(こころ)
この不自然な表現が2作続いて書かれたのは、天皇家に対する夏目漱石の皮肉である、私はそう解釈している(なお私自身は天皇家の人に対して当然だが和悪意などない)。
4、「三四郎」でも不自然
さらに「行人」・「こころ」よりも以前の作品である、「三四郎」(明治41年=1908年連載)においても、これも明白に不自然な描写がある。
三四郎が「大化の改新」の芝居を見る場面
舞台ではもう始まっている。出てくる人物が、みんな冠をかむって、沓をはいていた。そこへ長い輿をかついで来た。それを舞台のまん中でとめた者がある。輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。――三四郎にはなんのことかまるでわからない。もっとも与次郎から梗概を聞いたことはある。けれどもいいかげんに聞いていた。見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。ところが見れば毫もその意を得ない。三四郎の記憶にはただ入鹿の大臣という名前が残っている。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはとうてい見込みがつかない。そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。推古天皇の時のようでもある。欽明天皇の御代でもさしつかえない気がする。応神天皇や聖武天皇ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、唐めいた装束や背景をながめていた。しかし筋はちっともわからなかった。そのうち幕になった。
三四郎は帝国大学(東京大学)の学生である。大化の改新を知らないわけはないだろう。
なのにここでは、大化の改新も蘇我入鹿もよく知らないかのように「三四郎」の語り手は述べている。
さらには、推古天皇・欽明天皇・応神天皇・聖武天皇と並べながら、劇の主役であろう天智天皇=中大兄皇子については、言葉でふれることすらない。これも三四郎が天智天皇を知らないわけがないのにだ。しかもわざわざ応神天皇(=神功皇后の息子)というおそらく実在性の薄い神話上の存在まで名前を出しておきながら。
さらに三四郎(もしくは語り手)は、大化の改新で天智天皇によって暗殺された蘇我入鹿について、「舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた」、「三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである」などと、ちょっとどう解釈してよいかわからない表現を重ねている。
しかしとにかく、蘇我入鹿についてこれだけ連呼しながら、天智天皇(中大兄皇子)については、一言もその名を出さない。
そして最後に、大化の改新を描いた芝居について「筋はちっともわからなかった」と。
夏目漱石は天智天皇になにか恨みでもあったのだろうか。
これもまた、いつか考えたい。
