春なんて、すぐ終わる 「七、雪」
七、雪
今思えば、あの頃にはもう雪さんの身体は、少しずつ季節に追いつけなくなっていた。病室で過ごす時間は増え、窓際の椅子に腰掛けるその背中が、日に日に薄くなっていくのを、わたしはただ見守るしかなかった。
病院の東側の窓からは海が見え、窓の外では観覧車が、同じ速さのまま何度も円を描き続けていた。
雪さんはその景色が好きだった。わたしもつられるように窓の外へ目を向けると、凪いだ潮の向こうを一艘のヨットが滑るように横切っていった。ガラスの向こうを見たまま、「なんでこんなに暇なんだろう」と呟いた。
「変わります?」
そう返すと、雪さんの肩が小さく揺れ、その笑顔を見ているうちに、午後の光が髪を透かし、わたしは目を逸らす理由をひとつずつ失っていった。
「千咲さんってそういうところあるよねぇ。変わり者って言われない?」
「まだ耳に届いてませんね」
痰の絡んだ咳をひとつして、また窓の外へ視線を戻した。指先で長い髪をくるくると巻きつけ、小さく息を吐く。その横顔を見ていると、目を逸らせないのはわたしの方で、次の言葉を待っている自分に、そのとき初めて気づいた。
その沈黙さえ、続きを待ってしまった。
「桜。世界はもう、動いてるのにねぇ」
秒針が、静かに進んでいた。
「花筏になりたい」
「花筏?」
「うん」
雪さんは、窓の外を見たまま頷いた。
「咲いてる時より、散ったあとも誰かと流れていけるでしょう」
あの日は、それ以上何も聞かなかった。ただ、預かったその言葉だけが、わたしの中へ静かに降り積もっていった。
「雪、ベイスターズが首位だよ」
そんな調子で、手拍子をつけながら病室へ入ってくるのが雪さんの旦那さんだった。昼も、夕方も、ときには面会時間外の夜勤の時間にも顔を出す。鼻歌混じりにすとんとベッド脇の椅子へ腰を下ろし、スマホを取り出しては雪さんに何かを見せていた。そんな何でもない時間が、どういうわけか病室のどこよりも静かで、わたしは点滴を繋ぐ手を止めないまま、その輪の外から二人を眺めていた。そこへ入っていこうと思ったことは、一度もなかった。
「野球って何人でやるんだっけ」
「お嬢さん、それ何回説明させるんですか」
あんまりにも噛み合わない二人の会話は、いつも不思議なくらい途切れず、ときには旦那さんが雪さんのベッドへ潜り込んだまま、寝てしまっていることすらあった。
「もしかして、旦那さんニートですか」
本気で心配したわけではなかったけれど、背中越しに雪さんが吹き出す気配がした。その声につられて病室の空気まで少しだけ軽くなり、わたしは点滴の速度をもう一度だけ確かめた。
「本当、失礼な看護師」
「ほら、起きて」
雪さんは旦那さんの肩を軽く叩き、わたしを指差した。その手つきはあまりにも自然で、二人の暮らしがそのまま病室へ運ばれてきたみたいだった。
「この人、あなたのことニートだと思ってる」
「誰が」
「千咲さん」
旦那さんは小さく欠伸をしながら体を起こし、ベッド脇の椅子へ座り直した。重そうな瞼のまま「失礼だなぁ」と顔を上げると、誤魔化すように袖口の皺を几帳面に払い、そのまま窓の外へ視線を逃がした。そうやって雪さんの前でだけ子どもみたいになるところを、わたしは少しだけ好きだった。
「だって平日の昼間ですよ」
「仕事してるよ」
「怪しいなぁ」
「千咲さん、人の旦那に厳しいねぇ」
雪さんは少し大げさに咳き込みながら笑い、旦那さんも知らん顔をしていたけれど、口元だけは隠せていなかった。その笑い声が続くあいだだけ、病室は少しだけ家になった。ふたりはいつもそんな調子で、面会時間が終わっても、その病室だけには暮らしが残っているようで、わたしは用もないのに足を止めてしまった。
「千咲さんさ」
「はい」
「その顔やめなよ」
「どの顔ですか」
「世界に期待してない顔」
思わず手が止まった。窓に映る自分の顔はいつもと何ひとつ変わらないのに、その言葉だけが、わたしの知らないわたしを指さしているような気がした。
「そんな顔してます?」
「してる」
窓に映るわたしよりずっと本当の顔みたいで、「敵わないなぁ」と苦笑いした。白衣を着て何年になるだろう。それでも、自分のことだけはよくわからなかった。
「すごくしてる」
「看護師に向いてそうじゃないですか」
「なにそれ」
雪さんは肩を揺らして笑い、それから少しだけ咳き込んだ。笑うたび点滴のルートが小さく揺れ、咳が収まると、強張った指先を無意識に擦り合わせて、そのまま窓の外へ視線を戻した。わたしは、その横顔ばかり見ていた。
「でもね、期待してないふりしてる人ほど、ほんとは期待してるんだよ」
何も返せないまま、その言葉だけを胸の奥で繰り返していたあの日から、わたしも窓の外を見ることが増えた気がする。
別の日、雪さんは窓の外を見ながら「全然眠れないの」と消え入りそうな声で呟いた。
「昼間寝てるからでしょう」
旦那さんはそう言いながら、自宅から持ってきたタオルを枕へ敷き直した。頭を持ち上げる手つきは妙に慣れていて、柔軟剤の香りがふわりと舞う。わたしは二人のやり取りを聞きながら、その何気ない時間ばかり見ていた。
「雪、飛行機雲」
「本当だ、傘を持っていくの忘れないでね」
わたしは返事の代わりにカルテを閉じた。雨に濡れることには慣れていて、一日はいつも自分を置き去りにしたまま終わっていった。だから、傘を忘れないようにと思ったことは、一度もなくて、その言葉だけは、わたしの中へ残った。
「雨の日は、よく眠れるよ」
「あなたと寝てた時はそんなことひとつも思わなかったのに。ま、ほとんど夜は家にいなかったけどね」
「やってることは看護師さんと一緒です。ねぇ?」
旦那さんは眠たそうに目を細めたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「全然違うでしょ」
「事実じゃん」
口を尖らせていた雪さんも、結局はまた旦那さんを見ていた。
わたしたちは、最後まで誰にもなれなかった。
最後に雪さんへ触れたのは、わたしだった。
雪さんがいなくなってからも、矢野とは何度か夜を過ごしたけれど、それは寄り道みたいな肌の触れ方で、行き先の決まった旅路の途中を、わたしが歩いていただけだったのかもしれない。抱かれた記憶はあるのに、彼の本当の眠りだけは、最後まで知らなかった。
矢野だけを見ていたつもりだった。それなのに、触れるたびに思い出していたのは、雪さんが生きていたあの時間だった。恋をしていた相手が誰だったのか、今でもわからない。
わたしは雪さんの残した世界を歩いていた。
夜勤明けの気だるい光がレースカーテンの隙間から床へ滑り込み、その桃色は、大岡川の水面とひどくよく似ていた。
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