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谷崎潤一郎『春琴抄』を読んで愛と文章について考える。


このふたりの愛は、美しいのだろうか。
これは、愛の形に模した狂気ではないのか。

曖昧で答えのない愛の形は、心の素材を教えるような優しさがあるのに、歪みや醜さをひた隠しにされている。

それは、春琴の完成された琴の音が、鶯のように空高く舞い上がり、手のひらからこぼれ落ちていくように。

知人から一冊の本を渡された。
それは、私が失恋を経験した、ほんの2か月ほどたった頃だった。いい年齢の大人の私は随分と疲弊していた。自分という存在価値が消えていくことがわかったし、孤独を愛していたはずなのに、人のぬくもりを酷く欲しがっていた時期でもある。

『純愛だから』という言葉が随分皮肉に感じたけれど、実際に『愛』というものの本質を知りたくなかったかと問われると嘘になる。棚に並ぶその本を、手に取ることができずに、何度も眺めていたことを思い出す。

あれから随分と時間が経った今時分、真っ赤な表紙に梅の花があてがわれたその本を手に取った。

春の香りをまとったその本が、もしも生温い恋愛話であったなら。私はすぐにでもページを閉じていただろう。

谷崎潤一郎著の『春琴抄』は、盲目の三味線奏者である春琴と、彼女に仕える佐助の歪んだ愛と献身を描いた物語である。

舞台となっているのは、江戸時代の末期から明治初期にかけての大阪。

明治維新(1868年)をまたぐ頃の大阪を舞台としたこの物語は、どこか読みづらさが拭えない。

『目で見て、読むことができないならば、声に出して読め』

高校時代の恩師、小説家でもあった現代国語の教師は、ことあるごとに生徒の私にそう説いたことを思い出す。読書は五感で感じることだと言う彼女は、現代国語の成績が思うように伸びない時期に、何度も何度も繰り返し音読をするように私に指導した。

音に慣れるまで、私は口に出してこの本を読み進める。次第に文章の特徴に慣れていくと、唇の震えは静かに沈黙をはじめ、読点も段落さえも失った独特な文章と語り口に誘われていく。読みづらいはずの長くとめどもなく流れるその中に織り込まれる情報量はとにかく多く、それでいて余白が多い。それが谷崎の描く文章の醍醐味だ。

客観的な視点であるはずなのに不意に登場人物である『春琴』と『佐助』の真髄に触れる瞬間が何度も訪れては鶯の声のように儚く散る。

三人称が一人称へ姿を寄せていく様は『音楽を奏でるふたり』の生活の密度の濃淡を強くする。語り手と語られる人物の境界が溶けていく構造は、どこか、虚構に思え、それは佐助自身なのではないかと思わせる。

盲目の春琴と、丁稚の佐助。その主従関係は春琴の烈しい気象に裏打ちされた暴力装置で溢れ、献身的にお師匠である春琴に尽くす佐助は、痛ましくも純粋に映る。

『わしやお前たちは眼鼻が揃っているだけで
外の事は何一つお師匠様に及ばぬ
わしたちの方が片羽(身体障害者のこと)ではないか』

こう佐助が述べる通り、身体の不自由を生活全般のあらゆる場面で尽くしている彼だが、春琴に対しては常に完璧の『美』であることを前提に物語は進行していく。

春琴とは、親密であることを匂わせつつあくまで主従関係のまま時は流れていく。

このふたりの間に、愛は存在していたのかという点に関しても、記述があまりにも少ない。『崇拝こそが愛』そして、『自己犠牲こそが愛』という描写の仕方が、時代背景としては正しいのかもしれない。

それでも私は、序盤から気がついていたことも確かだった。これは『純愛』の物語だと。暗闇の中で佐助もまた琴を弾きながら腕を上げていく様子は、盲目の春琴を想う姿のよう思えるから。

文章の筆致が美しすぎる。その正体は、『曖昧さ』と、情景描写にとどめた『語らなさ』が最も要因になっていると考える。

感情の真髄に至る前に消えていく。そこから得られる感情は、すべて読者に委ねられ、一文の長さ段落のなさ、そして醜態、暴力、音色、風景が一色単に区切ることなく納められているのだ。それこそが、この文体美の構造であり、人間の全てを落とし込んだ倫理を超えた愛に結びついている。

終盤、春琴は烈しい気象が仇となり、恨みを買って熱湯を浴び、美しい風貌すら変わり果てて、次第に塞ぎ込んでいく。

ここでも、特質すべきは他者からの悪意すらも風景に溶け込んでいる点だ。そして、それに応えるように、佐助も自らの両眼を針で突き、盲目の道を選んでいく。

『お師匠様のお変わりになられたお姿は見えませぬ三十年来眼のそこに染みついたあの懐かしいお顔ばかりでござります何卒今迄通り心置きのうお側に使って下さりませ』

もしかしたら、佐助は美しく琴を奏でる春琴の姿だけを瞼に残したかったのかもしれない。それは、『盲目』にはらんだ、見たいものだけを見ようとする逃避という形のようにも読み取れる。そして、感情も倫理も、美意識すらも『盲目』の中に閉じようとした悲しさが映る。

ふたりの歳を、重ねるごとに文章は次第に風景や鶯の羽ばたきといった柔らかいものに変容していく。崩壊と受容、そして閉鎖的な主従関係が開放されていく瞬間でもある。

驚いたことに、口を閉ざした瞬間から、私は涙を流していた。初めてのことだ。物語の展開によって流したものではなく、『文章のつくり』にただ心が揺さぶられたのだ。鼓動は音をたて、紙一枚の尊さを想った。私が今まで書いていたものは、文章ではなかった。直感的にそう感じ、書物としての、『本物』を手に入れた喜びを味わった。貪るように、どこか身体ごと引き込まれる感覚で、読み進めていった。

結局私には、この『愛』の正体の輪郭をかろうじて掴むことしかできなかった。
それでも、佐助からの愛の物語の先に『師弟関係を超えてもなお同じ場所に埋葬されている』事実。そして、春琴もまた、佐助への愛を差し出しているように思えてならない。ふたりの愛の真実は、結局ふたりにしかわからないのだ。

そして、本当に偶然のようにある知らせが私の元にふわりと舞い込んだ。冒頭に話した元彼がある病にかかったということだった。それは、思ったよりも深刻であったこと。それでも、私はそれを知らせた友人に『幸せになってほしい』と言付けた。それは、幸せになることを諦めないでほしいという願いと、いつの間にかに、恋の終わりを受容した瞬間でもあった。そして、それは、愛ではない。そうはっきりと気づいた瞬間で、本当の別れでもあった。

誰かを愛するということは、自身の開放なのではないかと思う。人間らしく、倫理だけには収まらない歪んだ愛だったとしても。そのためなら、自身の身体すらも差し出す覚悟。生涯を通して、自分なりの愛を捧げる姿こそが、谷崎の描く『純愛』なのだ。その姿が、なんとも儚くて美しい。

ここ数ヶ月、創作大賞応募に向け、随分と文章に向き合った。この読書体験は『文体には命が吹き込まれる』と、谷崎に教えられているように思えた。

不要な読点、崩れたリズム、整合性のない文章の成り立ち。不必要な象徴。AIからは不要だと提示された先には、確かに私の想いが込められていた。絶望すらしたけれど、結局は誰かに頼んでも作れない私だけの文章なのだとようやく理解することができた。それはある種喜びであり、孤独である。

私は誰からも読まれることのないだろう文章に、いまも真剣に向き合っている。それが、私の人生における覚悟だから。

この作品は、『愛とは何か』という問いを読者へ提示している。愛することは美しい。人を尊ぶこと、醜態、悪意、尊敬、慈しみ、それは人間として生きる上でのその痛みを『愛』という言葉の曖昧にさ滲ませているようにも思う。それでも、そこに誰かを強く思う人間がいて、その心の揺らぎこそが、本当に美しい『価値』なのではと教えている気がする。

美しい中に確かに存在する醜い姿は、たしかな『愛』だった。全てが同一線上に存在する谷崎の紡ぐ文章のように。

素晴らしい作品に出会えたことを心から感謝する。そして、語り手の虚構こそが、ふたりの『純愛』を静かに守る装置であることに、ページを閉じて思う。

この本を私に貸し出したコニシ木の子氏はどこか、可笑しい人だ。この本の構成まで理解した上でこの本を私に貸し出していたとするのなら。

語り手としてこの物語に巻き込み、私自身の感情や価値観を揺さぶり、自分で『愛』を定義し直すように試されていたのではないかとも思う。もしくは、なにも考えていないか。
どちらにせよ、私も彼の手の内で結局転がされていたのかもしれない。その真実には敢えて目を当てず、私の胸の内に留めておこうと思う。


夏の読書感想文。
しばらくは、読みます。


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