【掌篇】秒針のところ
「雲、流れてますねぇ」
「ほんとですねぇ。風の流れはわからないのに、雲だけが流れてるじゃないですか」
「掴めないもの同士なのに、動いてるのだけは見えるんですよね。だから、なんとなく眺めちゃうんでしょうねぇ」
「あ、言いたいことわかります。どっかで誰かが怒ってて、その影響を、全然関係ないところで煽られてる人とか見ると、そんな感じしますよねぇ」
わたしたちの前を、鈴木くんが通り過ぎた。昨日の夜より、猫背で、顔色が悪い。忙しそうに廊下を行き来している。
窓の外では、雲は雲を追い越し、また形を変えていく。
「こういうとき、なぜか急にお腹が空くんですよね。あ、カレー食べたいってなりませんか」
「はぁ、カレーは風に関係なく食べられますからねぇ」
「全然カレーの気分じゃなかったのに、カレー屋の前を通ったらカレーの口になるとか。食卓に並ぶカレーに、またかよって思いながら、お代わりしちゃうとかね」
「そうですか。うちの娘が最近“うめっ”ていうんですよ。まだ一歳なんですけど、僕たち“ウマイ”って言葉を教えてないんです。なのに“うめっ”って言うわけ。天才ですよ」
時計の針は、ゆっくり回っている気がする。
「カレーはいつもそこにあるでしょう。なのに、こっちが選んでるつもりで、気づくとカレーの中に入り込んでる」
「うちの娘の“うめっ”も元々そこにあって、ただ食卓の場に埋め込んだ、そうですか?」
鈴木くんの白い靴の音が忙しなく響くと、患者が不意に彼を呼び止めた。
「鈴木くん、気分が悪いの?」
「いいえ、お腹空いてしまって。そうですね、カレーでも食べたい気分です」
その会話を背に、わたしたちは窓を眺めていた。廊下の時計の音が聞こえない。さっきまで鳴っていた気がするのに。ここには、秒針の音だけが届いていない気がした。
「雲、流れてますねぇ」
「いいえ、風が流れているんでしょう」
遠くで食器を落とす音が聞こえる。
もう、いつからここに立っていたのか、思い出せない。
「あれ」
「雲、動いていませんね」
だが、ここには時間が届いていない。
秒針のところ

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