【掌篇】致死量未満
私の妻は椿の蕊を好み、指先で摘み上げていました。その癖はどこか薄気味が悪いものでしたが、その光景を最後まで見届けてしまう私自身もまた、同じ性質に属しているのだと、あとになって思い知らされました。
夜気は冷たく土間に溜まり、小さな炉の火は尽きかけていました。澄んだ外気から切り離されたこの家の、扉一枚向こうで、梟が低く鳴いていました。鳴き声は近くも遠くもなく、ただ空間の底に落ちていました。
月翳が雲を貫く、ほんの少し前のことだったように思います。指先についた黄色い粉は暗がりの中でかすかに光り、ひびの入った皿や曇った硝子にこびりついた汚れまでもが、妻の指先の美しさという比喩の底へ、静かに沈んでいきました。
色はそこにありましたが、照らされているという感覚はありませんでした。
「こうやって子のない夫に仕立てたわたしは、罪深い女でしょうね」
その言葉は冗談めいた艶を帯びて、意味を結ぶ前に、私の身体のほうへ先に届いていました。私は生唾を飲み、身動きもせずに聞き入っていました。
新しい憲法が家族の形まで変えてしまったこの時代に、子を産まぬ妻を抱えている私は、ただの道楽者でしかないのだろうか。蕊の粉が妻の指に染み込み、さらに指が重なって床へ落ちるのを見届けたあと、私はようやく口を開いた、つもりでした。
実際に動いたのは、私の指先でした。
妻の指から取った黄色い蕊を、その頬に擦りつけていました。粉は皮膚の上で広がり、化粧というには遅く、傷というには浅い痕を残しました。
奪われなくてよかったと、そのとき私は心底から思っていました。子というものは、どうしても母に似る。そのことを思うと、胸の奥がひどく静かになりました。
彼女の胎が、私ではない誰かを形にする鋳型になるのだと思うと、私はそのなだらかな曲線を、急に遠く感じました。
私はそれを、想像するだけで耐えがたかった。
子を持つことに、いったい何の意味があるのでしょうか。娘が女に育ち、やがて美しく老いていくとしても、その姿に母の影が入り込む余地など、最初からないのだと、その夜の私は信じていました。
「母に、なりたかったのですか」
私は息のかかる距離で問い、妻の頬についた蕊をさらに広げました。白けた皮膚に、それは頬紅よりもよく映えていました。
妻は小さく咳をし「横になりましょうか旦那様」と声を土間に落としました。その声は、許しでも拒みでもなく、ただ事実のようにそこにありました。
私の手をさっと翻した、その一瞬の感触だけが瞼に残り、私はこのままでよいのに、と夜気の中に息をついていました。
測ろうとしたものは、量ではなく、私のほうだったのだと、そのときにはまだ言葉になりませんでした。
この夜のことを、私は夢の隙間の中で思い出していました。瞼を開くにはまだ早く、閉じ続けることで、その彩度の華やぎが薄れていくことを、人知れず理解していたのです。幻想が輪郭を帯びて立ち現れるさまは、現実よりも、はるかに尊いもののように感じられたからです。
私は起き上がり、もう反応すらなくなった妻の腕を取りました。弛緩した関節は、ぐにゃりとした重さを持ち、私の手の中でかろうじて形を保っていました。いまでも、あの重さだけは手に残っています。
私が選んだのは、痛みを消すには足りず、眠りを与えるにも弱い薬でした。
硝子の注射器から空気を取り除き、私は針先から滴る露をしばらく眺めました。
そのとき、ふいに梟の鳴き声が途切れたのです。空間の底に溜まっていた音の澱みが、潮が引くように消えていきました。扉一枚隔てた向こう側にあるはずの夜が、いまや途方もなく遠い異郷のように思われ、私と妻だけが、世界の硝子の中に閉じ込められたような錯覚に陥りました。
私は眠気にかられ、妻にはその概念すらないようにも思われました。血が滲む皮膚の上には、確かに生がありました。私は夜のあいだ妻が荒く呼吸をしていたことにも気づいていました。そしていま、ようやくこの薬を手にしているのです。
それでも私は、それが最も穏やかな選択だと、自分に言い聞かせていました。呼吸は深く大きくなり、かろうじて平静に触れていました。妻の纏う薄い絹の羽衣だけが、その寝息の浅くも豊かなことを知っていました。
死なすには早く、生き延びるには、けったいでした。
そのとき、妻の胸が、ほんのわずかに動いたように思われました。
それが、私の中に残った蕊でした。
それは花ではなく、ただの粉でした。
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