【掌篇】一方その頃、世界地図を辿る湯気。
東京・新宿のコンビニで、女は珈琲のお供になるチョコレートを選んでいた。少量の高級カカオか、人気チョコか。指先が包装紙を撫でた瞬間、空調の風が遠い砂漠の匂いを運んできた。背の曲がった男が、何かをコートに忍ばせた。誰も見ていない。蛍光灯が、昼と夜の区別を忘れていた。
一方その頃、ケニアのサバンナでは。ライオンとシマウマが、逆さまの水平線を駆けていた。足音が風に吸い込まれ、砂が太陽を削る。シマウマの模様は、地球の条約文書のように複雑だった。ライオンは叫んだ。それは言葉ではなく、「食べる」という概念そのものの本能だった。
一方その頃、フランス・パリのセーヌ川沿いでは。少女が橋の下でスプレー缶を握っていた。夜風に溶ける赤と銀。
「お嬢さん、それは犯罪ですよ」
警官が言ったが、少女は空に「未来」という文字を書いて笑った。それは一瞬、星座のように輝き、すぐに消えた。空は誰の国旗にも属していなかった。
一方その頃、南極大陸の氷原では。ペンギンのオスたちが卵を抱いていた。吹雪が一羽の羽毛を攫うたび、どこかブラジルの浜辺で風が鳴る。ひとつの卵が転がり、氷の裂け目に落ちた。
音は地球の裏側に届き、東京の女の足元をかすかに震わせた。彼女は立ち止まり、誰かの息遣いを感じた気がした。
一方その頃、イタリア・ナポリの病院では。老人がナースに尋ねた。
「今日は全国的に火曜日でしょうか」
「ええ、通常の火曜日であれば」
時計は永遠に二時を指したままだった。蛍光灯がまばたきし、時間は呼吸のように膨らんで縮んだ。
一方その頃、日本・大阪の住宅街では。主婦が夫のいびきを聞いていた。息が止まり、また始まる。テレビからブラジル戦のハイライトが流れていた。ピッチの緑の上で、選手たちは息をしていた。主婦は夫の首に手を伸ばす。
世界は呼吸で繋がっていた。ただ、それに気づく人は少なかった。
⸻そして再び、東京のコンビニでは。
「おじいちゃん、レジはあっちだよ」
小さな男の子が言う。老人はゆっくりと笑った。
その笑みの奥に、パリの夜と、サバンナの風と、氷原の静寂があった。
「ありがとう」
と老人が言う。女はチョコレートをカゴに入れ、目を閉じた。
その瞬間、ケニアの草原に沈む太陽と、南極の夜明けと、大阪の電灯と、ナポリの鐘が、同じ呼吸で、ひとつの音になった。
世界の裏側で。
あなたの手の中で、珈琲の湯気が静かに世界の地図を描いている。
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あなたにもそっと、届きますように。