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『夜明けの18秒』・episode 2 不可逆な時間【創作大賞2025・ファンタジー小説部門】

episode 2 不可逆な時間

 パーシの家の扉は、僕のノックに応えて重たく軋む。ぎぃっと小さく開いた隙間から、ミーシャがするりと体を滑り込ませて、慣れたように先に部屋の中へと入っていった。白く長い髭と、優しい目元。声はこの扉のように深く重かった。

「やぁ、ナオ。待っていたよ」

 僕が来ることを初めから知っていたかのように、笑みを浮かべた。そしてゆっくりと、大きな手で僕の肩に積もった雪を払った。

「お入り」

 肩を抱かれて勧められた室内はあたたかく、どこか、記憶の奥底を覗くような不思議な懐かしさがあった。古びた地球儀、針の止まった柱時計、壁に掛けられたモノクロの写真たち。どれもが、動かない時をそこに置いたようだった。

「パーシさん。手紙、見ました」
「そうか、どこまで覚えている?」
「昨日の、ことですか」
「そう。昨日のこと、そして、約束のこと」

 彼は部屋の真ん中にある革張りのソファに僕を促した。そして暖炉の薪を組み直しながら、確かめるように話し出した。カタン、カタンと薪の音と声は響く。

「まずは、この世界について、おさらいしようか」

 暖炉は少しずつ火が大きくなり、ミーシャはその前で体を丸くして転がった。

「この町の人々は、“昨日”がない世界を生きている。毎日が今日で、昨日の記憶はない。それでも身体だけは確かに老いていく。記憶が止まっていても、時間だけは物や体を劣化させる。不思議な世界だろう?」

 僕はゆっくりと頷いた。

「じゃあ、どうして……僕は、昨日のことを思い出せるんでしょうか?すべて、ではないけれど」

「記憶のかけらと、時間が繋がった時。それは、とても曖昧なんだ」

 彼は、僕の向かいのソファに腰を下ろした。

「いちばん、わかりやすいのは、人と話しをした時。例えば、今のようなね。もしくは、誰かを強く思ったときもそうさ。思い出そうとする意思があるときだけ、過去は応えてくれる。そういう風に、君は作られている。だから、君は選ばれた」

 ミーシャが、暖炉の前でぴくりと耳を動かした。僕の方を一度見上げて、また目を閉じる。

「あの子の瞳には、ときどき……まだ誰も辿り着いたことのない風景が映ることがある。忘れられた泉のような、遥かな記憶の底だ」

 パーシの目は、ミーシャに向いたままだった。

「あの子は、時間の外側を歩ける。そういう風に、できているんだ」

「ミーシャは、なぜ、時間の外側を歩けるんですか?外側っていうのは、具体的には」

 その問いに、パーシはすぐに答えなかった。ただ、少し微笑んで、語った。

「ミーシャは、特別なんだ」

 彼は、ミーシャを眺め、愛おしそうに目を細めた。

「名前には、不思議な力がある。たとえば、ミーシャという名を君が覚えていたようにね。あの子は過去を覚えてる。いや、正確に言えば、過去があの子の中に残っているんだ。猫だから、というだけではない。そして、この物語の結末を知っている。あの子は“導く者”なんだよ。とても大事な場所へ、ね」

 頭の中は、少しだけ整理されたようで、それでもまだ、濃い霧がかかっているようだった。

「じゃあ、パーシさんは、どうして“昨日”を覚えていられるんですか?町のみんなは覚えていないのに」

 僕の問いに、彼は笑って言った。

「それを語るには、まだちょっと早い。だけど、ひとつだけ教えておこう。この世界には“気づいた者”にしか、本当のことを話してはいけない、という決まりがあるんだ。だから、君が気づくまで、ぼくは待っていた。少しばかりのヒントと、手紙という形でね」

 火のゆらめきが、時計の針を照らしていた。彼は、ゆっくりと胸ポケットに手を置き銀色の懐中時計を取り出した。秒針は、動いている。静かに円を描いて。ただ、時々狂ったように、戻っては進み、また止まっていた。この町で初めて見る、唯一の動いている時計だった。

「これは、大切な人から預かったものなんだ」

 彼はそう言って、懐中時計の蓋を指先で撫でた。文字盤のふちには、小さな傷がひとつだけついていた。

「ぼくが忘れても、この子は覚えてくれている。“夜明けの時間”をね。そして、昨日を記録するための時計なんだよ」
「記録……?」
「フィンロッホの人々は、昨日を失う。それが呪いか祝福かは、まだ誰にもわからない。でもね、ナオ。君だけは、その時間を思い出せるかもしれない」

 ミーシャが静かに小さな息を吐いた。ふっと揺れたひげ先に、僕の目は釘付けになった。ささいな動きなのに、それが世界の呼吸みたいに思えた。僕にも深い息がこぼれた。彼はそれを確かめたあと、暖炉の火を眺めながら語り始めた。

「君がここに来たのは、6年前。僕たちは“同じ今日”を、6度迎えているんだ」
「そんな気が、してたんです」
「手紙に書いた通り、ミーシャは、君の記憶を守る猫だ。ぼくがあの子に名前をつけたとき、『ミーシャ』という名前が、君の口からも同じように出たのを覚えているかい?」

 僕は何も答えられなかった。ただ、胸の奥のほうで、古い鐘がまた鳴るような音がした。

「君はもう、知っている。思い出すことを恐れているだけだ。でも、約束はもう始まっている。あの列車が出る理由も、君が選ばれた理由も」

 彼は机の引き出しから、封筒を取り出した。

「これは、君が君自身に宛てた手紙だよ。ぼくが預かっていた。昨日のナオから、明日のナオへ」

 僕はその手紙を、静かに受け取った。
 まだ封は切られていない。裏面には、封蝋が二重に押されていた。ひとつは猫の足跡、もうひとつは、見覚えのないもの。でもどこか懐かしい、時計の針のような印だった。

 僕の手の中にある封筒は、少しだけ温かかった。昨日の自分が今の僕の手を知っていたかのように。 

「読まなくてもいい」と、パーシは静かに言った。「でも、それは“迎え”が来る前に、本当の意味で君自身に戻るための鍵なんだ」

 僕は頷いた。躊躇いながら封を手に取ると、指先が細かく震えていた。蝋に触れた瞬間、ひやりとした感触がてのひらに広がり、心臓の鼓動が一拍遅れて響いたことに気がついた。小さく、ぱきん、と音を立てて蝋が割れるとき、僕の中で何かが静かに崩れた。



ナオへ

 この手紙を読む君は、きっともう気づいているはずだ。昨日が失われることに、最初は誰も気づかない。でも、それがどれだけ大切だったのかを知るには、”思い出すこと”を恐れてはいけない。

 君は、この町の“終わり”を知ることになる。そして、それと同時に、“始まり”を選ぶこともできる。

 忘れられた記憶は、消えたわけじゃない。雪の下に埋もれているだけ。君がミーシャと歩いてきた道、あの小さな違和感のすべてが、思い出す準備なんだ。

 どうか、次にその列車に乗るとき、合言葉が必要になる。それには、約束の名前が必要なんだ。読んでいて、きっと混乱するね。この世界では、明日へ導くための言葉を残すことは、できないんだ。
 それは、雪のように、全て溶けるように消えてしまうから。思い出すことを怖がらないで。君は、ひとりじゃないから。

 “昨日のナオ”より

⸻ 

 手紙を読み終えた瞬間、僕はそっと目を閉じた。思い出そうとしたわけじゃない。でも、音もなく、遠くから雪解け水のような記憶が流れ込んできた。

 笑い声。風の音。誰かの泣き声。夕暮れの影。交わした約束。あの日の、まだ幼い僕の声。

 ミーシャが、いつの間にか足元でくるくると回って、短く鳴いた。それは、世界のどこかにいた、もうひとりの僕を呼ぶ声のようだった。

「ミーシャ。僕は、本当は、何を忘れていたんだろう」

 パーシは、再び黙って暖炉の火に薪をくべると、窓の外を見た。もう雪はやんでいて、遠くのセコイアの森が、最後の淡い光を放ち、闇に落ちかけているところだった。

「朝、6時41分18秒にネバートレインは出発する。はじまりの町クレーンフェルトへ向かう列車だ。君には“同行者”がいる。もうわかっているだろう?」

 押し黙ってミーシャを見た。記憶をゆっくりと、手繰り寄せるように。

「うん。そしてもう一つ──」

 パーシは立ち上がり、壁の奥から古びたトランクを持ち出した。金具には古い傷があり、角にはミーシャの柔らかい毛が一本だけ絡まっていた。

「この中に、世界の終わりを見た記録がある」

 革の表面は冷たく、指先がわずかに震えた。どこかで、小さく鐘が鳴るような気配がした。この重さには、僕の知らない、誰かの時間が眠っている。

「ナオ。これは、昨日がまだ存在していたときの物語だ。そして君は、これから“明日”をつくりにいく旅に出る」

 僕は、ミーシャの瞳の奥に、ふたつの世界が映っている気がした。終わった世界と、まだ終わっていない僕たちの世界を交互に見せるように。

「ありがとう、パーシさん」
「気をつけるんだよ。列車は、必ずしも行き、だけじゃない。戻れなくなることを、どうか覚悟しておくんだ」
「パーシさんは、なぜ、こんなにも色々知っているんですか」

 ここには世界の真実のかけらがある。そう感じたのだ。

「それを話すのはまだ、早い。と言ってももう6年も同じ会話をしているのだけれどね。ぼくは、誰かの祈りで生かされたのかもしれない。それが、昨日を知るという代償だったのだとしたら…君も、いつか理解するだろう」

 彼はミーシャを目で撫でて長い顎髭の中に含んだ笑みを浮かべた。

「まずは、時間の秘密を探すんだ。見当は、ついているだろう?」
「列車の出発時間……」

 彼はもう、僕のことを見ていなかった。

「不可逆って、どういう意味だと思う?」

 彼の声は、火のゆらぎに溶けるようだった。

「戻らないこと。でも、それだけじゃない。戻らないって、自分で決めることでもあるんだ」

 不意にミーシャが、玄関の方を見て、しっぽを揺らした。そろそろ、深い夜が降りてくる。

「気をつけて。まだ、君がこの秘密に辿り着いたことは誰も知らない。いつか、誰かが訪ねてくるだろう。いいかい。時計の針が動くのは、ここにある懐中時計だけ。手元にあるのはね」

 意味深に彼はテーブルにある銀の懐中時計に目を落とした。

「もうひとつだけ、時を刻む時計がある。黒の懐中時計。その針は……ああ、逆に回るんだ。だから、未来が……」

 彼はほんの一瞬、言葉を失い、空気を飲み込むようにして続けた。

「……記憶を飲み込み、目を合わせたその瞬間に……“昨日”は、跡形もなく」

 彼は喉仏をギュッと握った。どこかで誰かが聞いているようだった。きっと、この世界のルールは、きっと空気の中に当たり前に紛れ込んでいる。それを忘れるなと警告されているようだった。

 僕は静かに頷いたあと、森の外れにあるパーシの家をあとにした。陽は完全に落ちて、雪が彼女の足跡をすぐにさらう。まるで僕たちが前に進むことを拒むように。振り返ると、橙色のライトの下で、パーシはまだ僕たちを見守っていた。

 ミーシャは小さく鳴いた。『行くよ』。そう言っている気がした。柔らかいしっぽを揺らして。
 僕は、パーシにもらったトランクを抱えて、闇の中を駆け出した。


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