パープル・セイヴィア《第4章 オーガニックを纏う》【創作大賞2025】
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第4章 オーガニックを纏う
今日も、上越の山を越えて吹きつける北西の風は、乾いていて冷たく、古い木造の家の隙間という隙間にガタガタと音を立てながら、容赦なく入り込んできた。
こたつの中で一度寝転んでみたけれど、上毛かるたを全部暗記してしまった私はすっかり飽きてしまい、次の遊びを探しに、ユニクロのフリースを羽織って母を探しに外へ出た。
冷たい風が吹きすさぶ中、母は庭で、蕾が膨らみ始めたばかりの薔薇たちに静かに水をやっていた。私はその隣にちょこんと腰を下ろし、ただその風景を眺めていたけれど、不意に吹き抜ける風が体温を奪い、水の飛沫が頬にかかって、思わず小さく呻いた。慌ててフリースのチャックを首元まで引き上げたけれど、冷気の侵入は容赦無く、身体を縮こまらせた。
目の前には数々の薔薇たちが揺れながらもしゃんと立っていた。
「お母さんこの子、なんていう名前?」
「クリスマスローズ」
「クリスマス?」
「そう。クリスマスの時期に咲くから。寂しい季節に咲くなんて、嬉しいね」
母は、優しい目をした。
「花言葉は、私を忘れないで。こんなに綺麗な子たち、忘れる訳ないのにね」
母はくすりと笑って、私はふっくらとした桃色の蕾を指先で弾いた。
「どんな風に咲くんだろう」
「あ、千咲。こっちに一つ咲いてるよ」
「あ、ほんとだ」
桃色のクリスマスローズは、蕾の時期を終えて控えめに開き始めていた。
「お母さんみたい」
母の横顔を風の隙間から眺める。長い髪の毛がさらさらと靡く。
私の母は、美しかった。見た目も、心も。
着る服はいつだって上品だった。
優しく手洗いをしながら、何年も何年も同じ服を大切に着続けていたけれど、それでも質の良さは一目でわかった。母は、自分が気に入ったものを一点だけ買って、「メンテナンス」という金継ぎをしながら、何よりも丁寧に使い込む人だった。
質の良いニット、上品なスカーフ、使い込まれたバッグ。
私は、古びた木造の家に住んでいたけれど、不思議といじめられることもなかったのはきっと、母が「良いものを大切に使う」ことの美しさを、暮らしの中で自然に教えてくれていたからだと思う。
手作りの給食袋、センスのいいレッスンバッグ。髪を結ぶゴムは、大量に入った百円ショップの紺色のものだったけれど、母はその細い指で、私の長い栗色の髪を編み込んでくれた。結い終わった髪型を鏡で見るたびに、私は驚きと嬉しさで胸が高鳴った。
「千咲ちゃん、いつも可愛い髪型してる」
「お母さんが結ってくれるんだ」
「いいなぁ、上手で。お母さんも千咲ちゃんも、お姫さまみたいだね」
お友達は多かったし、毎日のように同じ服を着ていたけれど、「女の子でいること」を、母は何よりも大切にしてくれた。
髪を結いながら、「千咲は可愛い。毎日違う可愛いを見せてちょうだい」と笑い、仕事に向かう前の、ほんの少ししかない時間を、まるで宝物のように愛してくれた。
その手が作ってくれた髪型で、私は毎朝「お姫さま」に変わっていった。
見慣れた通学路は、いつだって新しい風に包まれていた。鏡に映る私を見て嬉しくなり、可愛い私を誰よりも早くお友達に見せたくて、「いってきまーす」と元気よく、なんの不安もなく生きていた。
それはきっと、「私自身を纏う」ことの楽しさを、母が教えてくれていたからだと思う。
弾ける笑顔に、母へ色目を使う男の人が多いことは、子どもながらにも気付いていた。
一緒に手を繋いで歩くだけで、振り返られた。頬を赤らめる男性の顔にさえ、私は疑問を持たなかった。それが当たり前だと思えるほどに、母は美しくて、隙がないほどに、あたたかい人だったのだ。
「千咲、ようく見て。ここ。花の下にある緑色の開いた部分」
母の指さす先に目を向けると、薔薇の花びらの根元に、薄緑色の小さな手のひらのようなものがあった。
「がくへん、って言うの。お母さんは、これ」
「がくへん?」
「千咲は、この薔薇の花。お母さんは、その花びらが落ちないように支える“がくへん”なの。薔薇によって、咲き方も支え方も、みんな少しずつ違うの」
あんまりしっくりと話が入らなくて、私はまた、萼片、を眺めて、再び視線をずらして開き始める花びらを見た。淡い桃色の花びらは、縁の方は色が濃くて折り重なるよう開こうとしていた。
「千咲はどんな風に咲くんだろうね」
そう言って、私の頭を優しく撫でた。母が育てるのびのびと育つ薔薇の咲く庭で、そんなことを話したことを思い出す。
母は、信号を無視して突っ込んできた、乗用車にはねられて、吹っ飛んでいったらしい。私が26という年齢に差しかかる5日前の家の近くの開業医へ健康診断を受けに行った帰り道のことだった。
知らせの電話が職場の私宛にかかってきて、私は、「はぁ。はぁ。それうちの母ですか」と、いまいち実感が湧かずに、何度か聞き返したような気がする。健康を守るために出かけた先の代償はあまりにも大きく、人間は余計なことをするものではないなと、直感的に思った。まるで実感が湧かなかった。
だからこそ余計に、現実味のない結末がどこか滑稽に思えたのかもしれない。
母が看護学校を卒業するお祝いに贈ってくれた牛皮のチャコールブラウンのリュックサックは、五年の経年変化を受け入れて、むらのある私の色に育ち、手触りも背中の馴染みも良くなっていて、素材の良さを引き立てながら年をとる喜びを皮肉に感じた。
私は生まれてこの方、ズル休みをしたことがない。と言っても風邪はおろか、ほとんど病気に罹ったことがないのだ。
母子家庭の我が家は、かなりの貧乏だったけれど、野菜の皮や、破片を集めて優しいポトフを作る人だった。体はすこぶる丈夫で、それでも、打たれ弱い性格は、オーガニックな過干渉の賜物だったのではないかと思う。
「持っているものを工夫したら、もっと素敵になるよ」
学校の勉強もよく見てくれたし、お友だちのようにピアノ教室に行けなくても、児童館にあるピアノを使って、本物に触れ、リズムを刻み、クラシックも、ジャズも分け隔てなく奏でた。
母のもともとの育ちが良かった、と言えばそれまでだが、数ある才能を惜しみなく私に注ぎ、お金をかけずとも、人より裕福になる方法を、誰よりも知っていた。
「大きくなったら、千咲は何になるの」
「お母さんになる」
母の暖かい手を繋ぎながら、学童保育の帰りの沈みかけた夕日の中で、まっすぐと、素直にそう思っていた。子供を産んで育てること、ではなくて、私は庭に育つ白や、桃色の薔薇のきれいな花びらを纏うような母そのものになりたかったのだ。完璧な幸せは、私から泣くという行為を教えなかった。
そんな愛情のある庭と家は、見ず知らずの親戚が手分けして捌いて、誰かのものになるという。詳細をあまり知る事なく、大事に培われた生活は金の流れと共に、唐突に消えた。
「千咲、おいで」
母は、毎日私を抱きしめた。簡単に背中まで届く痩せた母からは、ソンバーユの檜の優しい香りがしていた。
「千咲、可愛い」
母は、私に毎日可愛い、という水やりをした。私は、自然に私自身を纏うということに何の疑問も思わず生きてきた。
母が亡くなった5日後の今の季節は、庭のクリスマスローズと、白のふんわりとした暖色を身につける、アイスバーグと呼ばれる薔薇を優しく剪定する季節が訪れていた。
「咲き方は、何通りもあるの。千咲は、どんなふうに咲くのかしらね」
まだ蕾の膨らむ薔薇を見ながら、母が私に微笑みかける姿を思い出す。
母が死んでから私はまた、家の窓台に座りこんで夜を眺める時間が増えた。次第に、眠れなくなっていった。
記憶は今と過去を交差するように蘇る。母は、子供の頃、私が寝静まったのを確認してから、時々、夜の仕事に出かけていた。
眠ったふり。気づかないふり。嘘をつくことは、小さい頃から得意だった。
玄関を閉める音がして、足音が遠ざかるのを確認すると、私はそっと窓の前に立った。夜を見つめながら、遠くの星を、手のひらで拾うように。
それはいつも、母の面影をなぞるような時間だった。だから、私は夜に馴染もうとするのかもしれない。
ちらりと窓とは反対側の棚を見ると、白い箱の中の母が何か言っているような気がした。
倒れることも必然で、佐藤先生に指摘されるまでそんな自分の体調管理もできないことに、酷く落ち込んだ。そして、また、仕事にのめり込むようになっていた。
心の逃げ道をなくすように。そして、高価な化粧品を顔に塗りたくって、オーガニックに自分を纏うことを、否定するかのように垂れた目尻にアイライナーを引き上げて、強く逞しい振りをした。
病院で倒れた翌日には、私はいつも通りに職場復帰していた。
倉庫から大量の紙カルテを抱えて、私はエレベーターの前に立っていた。重さに少しだけ肩を落としたそのとき、不意に横から白衣の袖が伸びてきて、カルテの束ごと、すっと抱え上げられた。
「佐藤先生」
「なぁ、休めよ。有給休暇という制度知ってる」
昨日の外来の会話とほぼ同じ内容に、私は思わず笑みを浮かべた。
相変わらずこちらを見ようとしない佐藤先生の背丈は、変わらず高くて、黒く艶のある髪には、刈り上げたもみあげにうっすらと混じり始めた白髪が、5年という歳月をそっと刻んでいた。私はそのささやかな変化に、愛おしさを覚えていた。
髪の柔らかさや、白く整った肌、剃り残した薄い髭に、触れたくなる衝動が胸の奥からこみ上げたけれど、私はそっとその気持ちを胸にしまった。
「ありがとう」
そう言ってしばらく眺めていると、「これ重いよ。ほらエレベーター押せ」と、素っ気なく言った。私はくすりと笑って、エレベーターの矢印ボタンを押した。
「何に使うの、にしても、多いなぁ」
「後輩の看護研究にね、ちょっと」
「後輩の、看護研究にね、ちょっと…」
佐藤先生は、復唱して、「で、お前がなんで持ってんのよ」と、眉間に皺を寄せてマスクのずり下がった唇を尖らせた。
「あのねぇ。後輩が主体でやるものなんだから、手を出すんじゃないの」
ポーンと、エレベーターが到着して、ふたりで並んで乗り込む。
「寄り添ってあげたいじゃないの」
「にしても、仕事抱えすぎ」
私は壁に寄りかかって、ゆっくりと変わる数字のランプを、いつもの彼のように無言で眺めた。
「千咲」
私の心は、飛び跳ねた。
「お人よしも、ほどほどにしろよ」
初めて呼ばれる名前に、高鳴る心臓の音が口から溢れそうだったけれど、私は平静を装った。嘘をつくのが得意だったはずなのに、きっと佐藤先生には、簡単に見透かされているだろう。
「誰よりもお人よしな先生に言われたくないんだけど」
不自然な間は、私の語尾に少しだけ棘を残した。
「俺は愛情をかける人間は選んでいるよ」
なんて返答したらいいか迷いながらも、エレベーターは少しずつ動いていく。
「千咲」
「ん?」
「結婚しよう」
ポーン。一階に到着すると、ゆっくりと扉は開いていく。
私のことを見ることなく、佐藤先生はまっすぐとエレベーターを降りて行った。私は、何が起きたのかわからず、扉は再び締まり、「行き先ボタンを押してください」と、電子の人工的な声が響いた。
慌てて「開」ボタンを押すと、再び開いた扉を抜けてエレベーターを降りた。外来患者の飛び交うコソコソとした話し声や、患者を呼ぶ事務員の声が、妙に耳についた。
私は俯瞰で自分を見つめることはなくて、そこにいる自分自身の体の輪郭がちゃんとあることを実感した。私はしばらく歩き出せず、あたたかくなる心をそっと抱えて、その場に立ち尽くした。
「乗ります?」
面会札を下げた婦人に声をかけられて、ハッとして「いいえ、乗りません」と口早に告げた。慌てて会議室に行くと、大量の紙カルテはテーブルの上に丁寧に置かれていて、佐藤先生の姿はもうそこにはなかった。
いつもかったるそうに歩く佐藤先生は、きっともう外来の診察室に到着している頃だろう。エレベーターを降りる時、少しだけ左肩を上げて、照れたように首をすくめる彼の姿が目に浮かぶ。笑う時や、感情が口元に現れるのを隠す佐藤先生の照れ隠しは、私にも少しだけ伝染していた。
古いカルテを一冊ずつ取り、電子カルテに移行する前の、佐藤先生の手書きの丁寧な診療録を読んだ。若いくせに、古い医者特有の教育の痕は、文章にも反映されていて、時々登場する、ドイツ語や英語を、愛おしく撫でていった。
私は、「人」を診察する、佐藤先生が、好きだ。
看護研究の為に集めたカルテは、いつのまにか、私の知らない佐藤先生と、見ず知らずの患者の時間を切り取った宝物に思えて、夢中になって読み続けた。
日々の患者の状態の記録。会話した内容。看護師から受けた報告。様々な種類の検査結果のアセスメント。時折、診断の迷いが伺える。それは数々の症例の治療記録から、軽快、転院、死亡に至るまで多岐に及んだ。
私の知らない佐藤先生がそこにはいた。たくさんの患者との出会いの中で、生きて来た彼を知った。だんだんと文章は簡素化されていくけれど、そこには一行や二行では語り尽くせない患者と医師の真摯な向き合い方があった。
手書きの彼の文字は、時に乱雑で、時に優しくて、時々ボールペンのインクが薄くなったり、滲むようにインクが出過ぎていたり、そんな些細な変化がまた愛おしかった。私は指でその文字を撫でた。そこにいる私の知らない彼の姿を辿るように。
「ちぃちゃん?」
控えめなノックに私はビクッとして扉の方を見ると、弥生さんは扉にもたれかかりながら、青白い顔で、私を覗き込んでいた。
「弥生さん。どうしたんですか」
「隣、座っていい?」
「よろこんで」
弥生さんは、私がカルテを眺めている隣で、テーブルに両手を顔を乗せて、視線だけをこちらに送っていた。紙の音が、ぺらり、ぺらりと、静かに響いた。
「いい顔してる」
「えー、どういうことです」
「ちぃちゃんは、変わったよ。素敵だよ」
「変わった気がしないですよ、もういっぱいいっぱい」
「お母さんのこと、大丈夫?」
「不思議とねぇ、まだ、実感湧かなくて」
「どんな感じなんだろうね、子供を残して亡くなるって」
「子供って言っても、もう大人だし」私は少しだけ笑った。「だいぶ過保護に育てられたので、心配はしてるかもしれませんね」と、付け加えるように話した。
「弥生さんは?お子さん大丈夫なんですか」
「今日は、旦那が在宅で仕事してるから、熱出たって言ってたけど、お迎え頼んだ」
「ママもして、ナースとしても完璧で、奥さんもして。それでいて、優しくて。私、弥生さんみたいになりたいです」
「やめてよ。私には、ちぃちゃんが眩しい」
弥生さんは、今年32歳で、夕方の16時になると帰る、時短ナースだ。新人の頃から、私の指導係の鞍上先輩の目を盗み見て、こそこそと私に助言ををしてくれる、面倒見もよく、立場をよくわきまえた優くて、賢いナースだった。
もともとは、大学病院のER出身で、なんでこんなにも「小さな」病院に勤めているのか不思議なほどで、確かな知識と技術は、完璧という言葉がよく似合う。本来なら常勤ナースが受け持つような、ナースステーション脇にある、重症部屋の観察室を担当をすることが多かった。そして、医師のdoと呼ばれる、経過観察という進歩のない指示に、優しく問いかける様子は、周囲からも一目置かれていた。私は会話しながら、午前中の弥生さんの働く姿を思い浮かべていた。
ナースステーションの向かい側にある観察室の前で、弥生さんは静かに足を止めた。人工呼吸器の稼働音が、小さく、規則的にシュー、シューと響いている。
患者の蒲田さんは、もう何日も強制換気に頼って眠っている。
静かに電子カルテを眺める佐伯先生の後で、弥生さんはひとつ息を吐き、それから、呼吸器設定の画面を、まるで水面を見るような眼差しで見つめた。
「先生、そろそろ、ウィーニング、考えてもいいかもしれません」
そう言った声は、まるで小さな川のせせらぎのようだった。
佐伯先生は眉を上げて、手を止めた。
「呼吸数、やや高めですが、自発出てきています。SpO₂も安定していて、PEEPは5。PSVは10でキープできています。今日の血ガス、CO₂も溜まっていません」
弥生さんは、自分の手元のチェックリストをそっと撫でながら続ける。
「呼びかけにも応じるようになってきて、表情も、少しずつ、戻ってきました。無理をさせたいわけではないんです。ただ、息をする力が、ちゃんと戻ってきてる気がして」
佐伯先生はしばらく沈黙し、それから「なるほど」と呟いて、手元の画面からを目を離した。
「ちょっと様子を見て、PSVから下げてみるか。IMV数も一段減らして、反応見てもいいかもしれない」
弥生さんは深くうなずき、表情を緩めた。
「ありがとうございます。きっと、本人も、望んでいる気がして」
弥生さんは、患者のそばにいる時が一番輝いている。優しくて、穏やかな吐息には、優しさが溢れている。嘘のない笑顔は、隣にいるだけで幸せになれるし、検査結果や、患者の状態を誰よりも知っていて、アセスメントの深さが滲み出る。
たとえすべてが患者のためであっても、「医療安全」という名の武器をかざして、治療に消極的になる場面は少なくなかった。とくに、小さな病院という生態系の頂点に立つ医師たちは、頑なで、時に保身に走ることもある。そんな冷えきった空気の中で、氷のように固まった心をそっと溶かし、適切な方向へ導く弥生さんは、まさに本物の白衣の天使だった。
カルテを閉じて、弥生さんの顔を見た。生意気なのは分かっていたけれど、弥生さんの頭を撫でた。
「私ね、ここ辞めようと思うの」
弥生さんは両腕に顔を埋めた。
「えっ」
と、小さく声が漏れた気はしたけれど、私は、弥生さんの髪の毛を撫で続けた。壁にかけられる電波時計は、音もなく、くるりと回っていった。
「私、自分が誰なのかわからなくなるの。看護師を続けたくて非常勤で働いてきたけど……渚、気管支が弱いでしょう?風邪ばっかりひいて、仕事も休みがちで。みんなに迷惑かけて、ほんとにごめんね」
「渚ちゃん、心配ですね。家庭との両立、大変だと思います。でも弥生さんが来てくれると、嬉しいんです。私、新人の頃から、ずっと見てました。患者さん思いで、知識も深くて、必要なことはまっすぐ伝えてくれて。ママだからなのかな。時間の使い方もすごく上手で。定時になると、いつも小さくなっているけど、そんなの気にしなくていいのにって思ってます。あの負荷の中で、いつも丁寧に引き継ぎされてて。格好いいですよ」
弥生さんの艶のある黒髪には、出会った頃よりも白髪がいくつか増えていた。染めたことがないような、本来の色のままのその髪は、触れるのをためらってしまうほど、凛とした美しさを纏っていた。
でも、ほんとうの美しさは風貌以上に、その人の在り方に宿る。出会った頃から変わらない切れ長の目元は涼やかで、肌は雪のように白く、声すらも艶を帯びていた。爪はいつも短く整えられ、細部にまで、誰かを傷つけない優しさが行き渡っていた。
病室のそばを通るとき、彼女の視線はいつも、患者のつま先から頭まで、身体につくチューブの一本一本にまで注がれていた。病棟でも、外来でも関係なく。彼女は看護師の理想像でありながら、決してそれをひけらかすことのない人だった。だからこそ、彼女といると心があたたかくなる。
「買いかぶりすぎだよ。私、いつも何か考えてる。仕事中は子どものこと、家に帰れば仕事のこと。ずっと遠距離だった夫と結婚して幸せだと思ってたのに、家族になったら気持ちが遠くなっちゃった。まるで、他人みたい」
弥生さんは、ぽつりぽつりと、静かにこぼすように話し続けた。
「夫は優しいし、嫌いなわけじゃない。家事も育児も協力してくれる。でもね、看護師としても、ママとしても、妻としても、全部中途半端で。どれも完璧にやりたいのに、時間がない。圧倒的に、自分の時間がないの。鏡を見て、『あれ、こんな顔だったっけ?』って思う。休んでばかりで、いつもペコペコしてばかりで、私ってこんなに自信のない人間だったっけって」
その言葉のすべてが、彼女の肩にのしかかっていた。
「私って誰なんだろう、ってずっと考えてる。渚は泣いてばかりで、私はご機嫌とるのに必死で、キッチンには切りかけの野菜がそのまま、捨てられないゴミが溜まってて、リビングにはたたみ終わらない洗濯物が散らばってて。夫は言うの、『仕事なんて辞めれば?無理しなくていい』って」
弥生さんは、小さな声で続けた。
「優しさって、残酷よね。それでも、やっぱり、病院が好き。仕事してる私が、一番好きなの。唯一、自己表現ができる場所だから。みんなの迷惑になってるかもしれない。それでも、ここにいたいって思うの」
弥生さんが顔をあげて、私の方を見た。潤んだ瞳には、覚悟のような、光のような、静かな強さが宿っていた。
「ちぃちゃん、明るくなったよ。いろいろあったけど、きっと乗り越えられる力がある。ほんと、眩しいくらいだよ」
私は、なんて言えばいいのか分からなかった。弥生さんは、いくつもの「誰か」を纏って生きてきた。私は、私しか纏ってこなかったから。だからこそ、彼女の苦しみを真正面から理解することはできない気がしていた。
無理しないで?頑張りすぎないで?そんな言葉しか浮かばない自分が、情けなかった。
私は自分の言葉で、彼女に伝えた。
「弥生さん、大好きです」
「うん。私も、ちぃちゃんが大好き」
また少しだけ、弥生さんの目元が滲んだように見えた。けれどその涙は、下まぶたにとどまったまま流れ落ちてはこなかった。
大人になるって、泣けなくなることなのかもしれない。私は、そんなことを思いながら、弥生さんの髪をそっと撫でた。その感触は、母の髪と、どこか少し似ていた。
静かに進む時計の針が、いつの間にか就業時間を過ぎていた。でも私達は、その優しい沈黙に甘えて、少しだけ時間を止めたままでいた。
私は、誰のために、何を纏って生きていくのだろうと、そんなことを思った。
⇩第5章 HOPEという名のあんぱん⇩
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