冬の蛍
夏の、田舎の夜の記憶。
祖母に手を引かれて砂利だらけで砂埃のたつ、田圃の農道をひたすらに、歩く。素足のビーチサンダルには小さな砂利が入り込んで、チクリと痛みを伴って、祖母の肩を借りてはそれを出し、少しずつまた前に進んでいく。微かな記憶の中で、確か去年も、靴を履いてくれば良かったという後悔が過って、来年もまた同じことを思うのだろうと簡単に予想できて、私は少しだけうんざりした。
夏の夜の記憶なのに、さほど暑かったような覚えもなく、今でもあれは夢の中の出来事だったのではないかとすら思うことがある。
田舎の風景は広い。見渡す限り建物がないから、どこまでも夜は広くて、星も、月の光も、淡く靡いていて、鈴虫と風の声が耳元に広がって、それでも、夏の夜は特別で、闇をふんわりと軽くする不思議がある。全てがぼんやりと広いから、小さな命はよく映える。
今年も、繁る稲穂の周りには、小さな小さな、黄身がかった苗色にセルリアンな青色の光が灯っている。闇に隠れた植物がそこに存在していて、見たこともない表情に変わっていて、照らされる光で物体は変容し、それを自然に受け入れる土台が自然だったことを思い出す。祖母の優しい手は骨張っていて、小さな体で、畑を耕して、命を育む優しさを持っている。月夜に照らされるどこまでも続く荒れた農道は、祖母の歩いてきた道のりそのものだ。遠くの夜空から、私たちを見下ろす月の眺めを、目の前の蛍を眺めながら、俯瞰できるのはなぜだろう。
「eriちゃん、ありがとうね」
知愛さんは、そう言って、ナースステーションで電子カルテと睨めっこしている私の肩を抱く。彼女は、私の尊敬する唯一の看護師で、唯一の理解者だ。ナース服という装備を、ただのユニフォームに変える淡く、優しいフィルターを持つ人だ。そんな穏やかな暖かみを持つ知愛さんは、今日で退職を迎えて、まだまだ雪が降り頻る北国へ帰ると言う。
水と光の調和。闇と空の境界線。
夏の蛍は、美しさを留める奇跡で、それでもあの夏を最後に、私の記憶からは消し去られていて、今はもう、そんな田圃や農道は、影すら残さず、人工的なアスファルトで埋め尽くされている。そんな田舎の夜の風景を、私は仕事をしながら驚くほどに鮮明にふと、思い出す。夏の蛍は、知愛さんとの出会いで、別れは冷たく硬い、
覆せないアスファルト。
eriちゃん。
知愛さんのeriちゃんと呼ぶ声が好きだった。
どんなに忙しくても、どんなに場面で急変があろうと、落ち着いた手技と、明確な看護を提供する知愛さんと共に過ごした時間は、全て夢の中の出来事だったのではないかと思えるほどに
愛おしい。
「はい、よろこんで。」
可愛らしい声で、患者に寄り添い、
彼女もまた、命を育む手、を持っていた。
懐の深さは、知愛さんの
人生の奥行きと余白を知る。
冬みたいに寂しい殺伐とした院内の風景を、あっという間に溶かしていって、
脳裏に羽音をたてながら、弧を描いて光を放つ。
永遠の夏はないけれど
永遠の思い出は確かにあって
永遠に続く、出会いと別れを繰り返す。
「eriちゃん、誘い笑い、反則だから」
私が笑うだけで、知愛さんは笑う。
「知愛さん、出会ってくれて、ありがとう」
にひひ。
「元気でやんなよ。」
にひひ。
私達は、顔を見合わせてまた、目尻と口角を緩ませる。こんな瞬間は過去に幾度となくあって、それを確かめるように、知愛さんが最後に袖を通したナース服の胸元に、私は顔を埋める。
「知愛さん?」
「ん?なーに?」
「なんでもない。またね」
あの夏の、蛍と、同じ。そう思った。
それでも、人は違うと、信じたい。
またね。
私は、タイムカードを雑に押して、非常玄関のロック画面を相変わらず間違えて、アタフタと靴を履きながら扉を開ける。
寂しさに浸るのはまだ早い。
当たり前の、いつも通りの夜勤明けの朝は、わかりやすく眩しい。
日本の北側には、いまも雪が降っている。
彼女の帰る故郷も、そう。
人の行き交う冬の横浜で、
降り頻る粉雪を想像し、あの夏の蛍を想う。
私はまだ、知らないだけかもしれない。
冬の蛍に出会える方法を。

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