パープル・セイヴィア《第12章 パープル・セイヴィア》最終章【創作大賞2025】
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第12章 パープル・セイヴィア
最終章
シーシャラウンジの店内には、小さな水音がところどころに優しく響いている。
耳を彩るはずのその音は、かつて夜勤の静けさに寄り添っていた鼓動のように、今はどこか冷たい余韻を残していた。まだ心の置きどころを決めかねたまま、私は綾に連れられ、この場所にいる。
静寂に包まれていたあの日のアキの面影は、光と煙に溶けて、この場所のどこにも見つけられない。ヤマトさんは、音もなく歩み寄り、私たちの前で自然に膝を折った。
「千咲さんのオーダーは、ちゃんとアキから預かってます」
私が首を傾げると、ヤマトさんはほんの一瞬だけ目を伏せて、髪の毛を揺らして静かに微笑んだ。
慣れた手つきでココナッツの炭を置くヤマトさんを久しぶりに見た。それがどこか儚くて、思い出を切り取るように時間を止める。
渡されたシーシャホースを右手で受け取り、冷たくて滑らかな感触に一瞬、心が静かに揺れた。青空を見つめながら、煙を大きく吐き出すと、空気がやわらかく、心を包んでいく。
目を細めて煙を見つめると、ヤマトさんは静寂の中でぽつりと言った。
「パープル・セイヴィア」
その瞬間、彩られたキャンバスが、窓の向こうに広がる青空に広がった。アパガンサスの花びらが記憶の奥でひらりと揺れる。
「アキからの伝言です。……今まで、ありがとう」
思い出が、静かに過去を奏でていた。
時間の流れに寄り添うように、アキと過ごしたやさしい朝を。眩しすぎる昼の陽射しを。ネイビーに溶けた夜を。
「紫が好き」
みなとみらいの観覧車が、瞼の奥で放射状に瞬く。アキは、千咲みたいだって、言ってたっけ。
紫は、救いの色だった。
甘さも、優しさも、そして痛みも——。
涙は鼻腔を越えず、視界に薄い膜をかけるだけだった。再び、水音をたててシーシャを吸う。さっきよりも、深く。
溢れかけた涙を堰き止めるように、私は大きな窓に顔を向け、口角をわずかに持ち上げた。
アキの優しさを煙に託し、静かに吐き出す。煙は窓の光に包まれながら揺れ、頬を伝って、一筋の涙が落ちた。
救いは、誰かの手ではなく、心の奥でそっと溢れる涙として届くのかもしれない。
淡いフレーバーが、静かに喉の奥に残っていた。それはどこか祈りのようで、私には、少し甘すぎた。透き通るような余韻の中で、私はふと問いかける。
——アキの瞳に映っていた私は、どんな色をしていたのだろう。どんなふうに、咲こうとしていたのだろう。
「それ、ニコチンフリーだから。アキから、強く申しつけられてます」
耳元で囁くように言い、左手で口元を隠したヤマトさんは、カウンターの奥へと消えていった。
「Savior…救世主…か」
綾の声は、煙のように静かで、どこか寂しそうに、レモンとライムのシーシャのフレーバーを広げていく。それ以上、何も言わずにどこか遠くを見つめて。言葉を重ねない沈黙が、心地よかった。
やさしい余白を抱えたまま、私は綾へと視線を向けた。
「綾は、私に合わせて辞めて良かったの」
私と綾は、今日の夜勤を持って、新卒から働いていたさくら中央総合病院を退職した。
「私はねぇ、もともと辞める気だったの。エステ業界に転身するの」
綾がもっと前から辞めるつもりだったことは、気づいていた。私に歩調を合わせてくれていたことにも。それでも、気づかないふりをして、わがままな沈黙を、綾は静かに受け止めてくれていた。
「持ってる素材を、そのまま活かしたいの。女の子は、みんな、『可愛い』をちゃんと持ってる。お肌のハリが少しいいだけで、世界の見え方が変わるの。分厚く塗ることが正義じゃない。デパコスに頼らなくても、自分の中にちゃんと可能性がある。私は、それを引き出してあげたいの」
綾は笑顔を浮かべたまま、一気に言葉を紡ぎ終えた。そこに宿る懐かしいあたたかさが、胸の奥をそっと緩めてくれた。
「で、千咲は?どうするの?」
「私はなんにも決めてない」
「家は?引き払うって言ってたじゃん」
「来週、出る」
「次の家は?え、実家もうないんでしょ」
「決めてない。なーんにも、なーんにも決めてない」
私もシーシャを、短く、深く、味わうように吸い込んだ。
透明な水が小さく泡立ち、ボコボコと音を立てる。その響きが、私だけの静かな宇宙をかたち作る。煙をゆっくりと吐き出すと、誰も映らない窓に、吸い込まれるような澄んだ青空が広がっていた。私たちは笑い合い、そっと顔を寄せて、静かに目を合わせた。
アキとの出会いは、このシーシャラウンジだった。あの頃の私には、この場所が必要だった。新しいフィルターを纏うことを、呼吸の喜びを思い出すことを、生きているという実感を、ひとすじの煙が教えてくれた。
アキが私の名前を呼ぶ声は、静かに差し込む光のように、私の心を救ってくれた。
私は、この場所に、生かされていた。
赦されたくて、誰かの体温に触れたのかもしれない。私の中に確かに残ったのは、あの夜のぬくもりだった。
私はまた、静かに、パープル・セイヴィアのフレーバーを解放していく。
アキに。そして、この場所に、そっと、別れを告げるように。
カフェカーテンに取り付けられたベルが、ちりんちりんと控えめに鳴る。
横浜のパルナード通りは、夜が一日の始まりのように人で賑わっている。ふと、空を見上げると、都会の明るさに消えそうな星が、ひとつだけ、揺るがずに光っていた。
りんご飴の小さなお店を覗き込み、子犬の並ぶショーウィンドウをふたりで眺めた。私達は、歩く。いつものように、腕を絡めて。
横浜駅に着いたとき、綾は手にしていた花束やプレゼントの紙袋のことなど忘れたように、私を抱きしめた。不意に近づいた吐息が、耳の奥をくすぐる。
「千咲…」
猫みたいな細くて柔らかい髪の毛が頬に当たる。
「大好きだよ。これが恋かどうかは、私にもわかんない」
ぬくもりがそっと離れていく。
綾は、今度は私の目を見て、くしゃくしゃに、春みたいに笑った。
「バイバイ。元気でね」
人混みに紛れていく綾の背中は、とても小さくて、それでも可憐だった。最後の桜の花びらが散るように、私の瞼の奥を覆った。
私の小さなアパートの窓台からは、みなとみらいの夜景が今日も美しく輝いている。
そっと、冷たい窓に暖かい手を添える。遠くに見える星は遠くのままで、私の小さな世界から続くその先の光と闇の奥行きを知るように、目を細めて景色を眺める。手前の月は、瞼の奥に光を残す。
半径1mの小さな世界の中から生きていく。前髪を揺らす風を、意識することはなくて、ただ流れていくありのままを淡々と受け入れる。夜の美しさに寄りかかるのは、今夜で最後にしよう。私を救えるのは、私自信だ。その静けさの奥で、ひとつ、心の音が静かに鳴っていた。
私はただ、生きていて、それ以上でも、それ以下でもないのだから。
私は、孤独が好きだ。
そして、人が、好きだ。
私のエンドロールには、きっと並ぶ名前が多すぎる。形どる景色にいくつもの名前が溢れ出す。
人を、心を、身体を、そのぬくもりを抱きしめるように。
ここから、私はまた人生を始めていく。
ゆっくりと、ただ一歩ずつ確かな輪郭をつけて——。
ひとすじの光にそっと、手をのばす。
祈りを込めたその先に、北極星は今日も静かに瞬いていた。
——end.
パープル・セイヴィア
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あなたにもそっと、届きますように。