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横光利一『機械』の文章に惚れた日。


横光利一著の『機械』を読んだ。

1930年(昭和5年)出版の本作は、第一次世界大戦後の機械化・都市化の波が社会を覆い、人間が無機質な歯車として扱われるようになりつつあった時代背景を持つ。

当時、人間が機械の一部として扱われ始めた時代にあって、これほど繊細に『個』の内面を描ききったこと自体が、特筆すべき点だろう。

句読点を極端に省き、改行も最小限に抑えた文体は、読者に呼吸の余地を与えず、心理的な圧迫を演出する。それは少し読みづらさもありながら読ませるだけの推進力がある。

導かれるように働きはじめた『私』が、工場という閉じた空間で、自分の輪郭を削り取られるように日々を過ごしていくその構造が実に面白い。

そこには、『主人』と呼ばれる工場長。その妻である『細君』。『軽部』と呼ばれる同僚。そしてその工場に手伝いとしてやってきた『屋敷』が登場人物である。

工場の中で『私』が見ているもの、感じているものが、少しずつズレていく。そのズレに気づいたときにはもう遅くて、気づけば私まで、軽部や屋敷に見られているような気がしてくる。これはただのフィクションではないと違和感を提示する。

とにかく人間描写が細かく面白い。特に『怒』や『嫉妬』という描写のなかに、どこか他人事の表現とリアリズムの対比の緩急が強い。

一文一文は、一人称でありながらこの登場人物を織り交ぜた不思議と外の世界との心理描写が地続きな溶け合いが秀逸である。

仄暗く、冷たいこの世界感はこの文章の作りに全て委ねられていて同時に『私』は、他人を観察しながらも俯瞰にもなりきれない独自性が一貫して貫かれている。そしてそれは奇妙でどこか虚構に溢れているのだ。『薬品』や『機械』といった固有名詞の乱立と、『ネームプレート』を作る工場であるはずなのに、物語がいくら進行してもその実態があまりにも掴めない不確かさが残る。抽象的ともまた違う『ナニカ』は、実に気味が悪く、展開に従って感情が収束することも、発散することもなく、ただ生が流れていく。

どこか滑稽な象徴である『主人』の周囲で、自己顕示欲を見せ合うような現代社会でもありがちな構図ではあるが、それがまたどこか煙に撒かれている。それは相手の行動や行間心理を自己投影のように巧みに表現していることにあると考える。

人間の中に宿る滑稽さ、浅はか、凶暴性、狡猾。

他者を自身の鏡のように描かれている点は、自我の投影を巧みに利用した心理描写と、虚構の工場風景は圧巻だ。現代にも通じる『私』が私でいられなくなる実感は、時代に関係なく『心』が繋がっている安心感を生む。

私は静かに横光利一と対話する。
本作は大変読みづらい。でも、それがいい。息つく暇もないあの無間地獄のような文章に、つい吸い込まれてしまう。

いつの間にか複数の視点から語られる『私』は、もはや自分を信じられず、軽部の目や屋敷の手つきを疑い、過去の自分すら他人として見つめる結末で終わる。
そんな『機械になった心』の様子はどこか読者も当事者のような錯覚を生む。

その人間への描写の細やかさには、私は心底感動した。機械のように扱われる時代のなかで、これほど生きた人間の心の動きや弱さ、滑稽さを深くに描いているのは奇跡のようだと思う。

そして、私もまた、この虚構のような世界に、まさに自分も生きているんじゃないかと。

そして、ページを閉じて、私はいちど笑った。もう、悔しいほどに『横光利一』という人の文章の緻密さに惚れてしまった読書体験だった。

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