初めて鼻くそを食べた日。
私の「初めて」を捧げた相手は、幼なじみの“カンチャン”だった。
人生で、鼻くそを初めて食べた相手、という意味である。
お皿の、カンと当たる音を聞くたびに、私の胸はどきんと跳ねた。
風を纏って走るように足の速いカンチャンは、いつだってどこか、世界から浮いて見えた。瞳が大きくて、肌は白くて、背もちょっとだけ高かった。
かけっこでは誰にも負けなかったし、サッカーではカンチャンがいるチームが必ず勝った。勉強もできて、目立つのに無口。私は気がつけば、いつもその背中を目で追っていた。
「エリ。カンチャンのこと、好きなんでしょう?」
突然の直球に、私はカンチャンから視線をそらした。香織はまっすぐに、私を見ている。
少し迷って、私はそっと頷いた。
「エリ、好きな人のすべて、を受け入れる覚悟はあるの?」
小学二年生とは思えない口ぶりだった。けれどその言葉が、なぜか心に刺さった。
──覚悟。
私は、もう『女』になっていたのかもしれない。
私はもう一度、小さく頷いた。
「エリ。カンチャン、いまから鼻くそ食べるよ。よく見てて」
香織の視線の先、椅子に背を預けたカンチャンが遠くを見ていた。右手が鼻へと吸い込まれていく。
美しい顔が、ゆっくりと崩れていく。高い鼻の穴がぐりぐりと広がり、指がなにかを探していた。やがて見つけた「それ」を電気にかざし、満足そうにパクリと食べた。
香織が、言った。
「好きなら、正しい道に戻してあげないと。注意してきて」
──残酷なことを言う。
けれど、香織の言葉にはいつも、逆らえない。
香織は、はじめて私に話しかけたときもこうだった。
「親友になってあげる」
突然だった。私がダンゴムシを“ダンゴロムシ”と呼んで可愛がっていた日のことだ。あれが間違いだと知ったのは、中学に上がってから香織に訂正されたときだった。
香織は続けてこう言った。
「エリ、現実を見たほうがいい。私は現実を生きるオンナだから」
なにを言っているのか、分からなかった。
けれど私は頷いた。
「う、うん。わかった」
香織は満足そうに笑った。
それから、私たちは「親友」になった。
香織は、空想のなかを泳いでいた私を、現実に引き戻す存在だった。
──だから私は今、カンチャンの鼻くそと向き合っている。
震える足で近づいていくと、カンチャンはまた鼻に指を伸ばしていた。
「エリ、なに?」
「……鼻くそ、食べないほうが、いいと思う」
「なんで?」
思いがけない問いだった。
「……だって、汚いし」
「エリ、食べたことないでしょ?」
「え?」
「時々ね、鼻の奥からポテチのかけらとか出てくるの。そういうとき、ちょっとだけ幸せな気持ちにならない?鼻くそも、それと同じだよ」
私は少し、納得しかけた。
でも振り返ると、香織が首を横に振っている。
「でも……味しないじゃん。食べ物じゃないし。鼻くそだし」
「じゃあ、食べてみてよ」
言われて、私は固まった。
「……はずかしいよ」
「大丈夫。僕、見てるだけだから」
そう言ってカンチャンは私の手を引き、窓のそばのカーテンを閉めた。
──閉ざされた空間。私の鼓動が、うるさい。
私は、鼻の奥に指を入れた。
指先に、コロッとした感触があった。
カンチャンは黙って私を見つめている。
──口に入れる。
しょっぱい。かたい。それだけだった。
私はそれを、飲み込んだ。
「よくできました」
カンチャンはそう言って、カーテンを開けて去っていった。しばらくして、香織が近づいてきた。
「……覚悟の先に、なにがあった?」
ニヤニヤして、香織は、そう聞く。
私は、答えなかった。
この日、私は、『鼻くそ処女』を失った。
それは、「好き」という気持ちに、すこしだけ現実が混ざった、今日のような暑い日の出来事だった。
⇩香織との話はこちらにも…。

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