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春なんて、すぐ終わる「四、赤提灯」


四、赤提灯


 看護協会で一日中研修を受けた帰りだった。観光地みたいな桜木町は、いつの間にかベイスターズブルーに染まり、陽が落ちてもビルの隙間には熱が残っていた。街の温度が変わったことに気づいた頃、ようやく自分の空腹を思い出した。

 赤提灯の焼き鳥屋、「活」。

 引き戸を開けた自覚すらなかった。朝になっても夜だけが身体の中へ残り続け、眠っているのか起きているのかさえ曖昧な日々が続き、何かを口へ入れていなければ、自分がどこへ向かっているのかさえわからなくなりそうだった。焼き鳥屋のカウンターへ腰を下ろし、「ビールで」と軽く告げると、店主は明るく「あいよっ」とだけ返事をした。くすんだ煙がゆっくりと立ち上るその店は、どこか、わたしみたいだった。
 棚には招き猫、競走馬のぬいぐるみ、ベイスターズのポスター。その日ごとに推しが少しだけ変わるような雑多な気配があり、背中越しに引き戸が開く音がした。

「どう、勝ってる?」
「やばいかな。いらっしゃい」

 テレビからはベイスターズの野球中継が流れていて、店の中にはユニフォームを着た客たちが溢れていた。地元愛の熱が高い場所ほど、なぜかわたしは気持ちが萎んでしまう。きっと今日のこの店の推しもベイスターズなのだろう。

「最近あいつきた?」
「あー、でかい兄ちゃん。ベイスターズのにわかファンね」
「そうそう、自称『にわか』ってはっきり言うのが気持ち良いよなぁ」

 耳から会話は通り過ぎ、お通しのキャベツを前に、わたしは割り箸を割ろうとした。チグハグな箸の太さに木のささくれがぴんと張り、ここでも上手くいかないのかと小さくため息をつく。それでもビールはまだ来ない。

「見ない顔だね?」

 テレビから目を離さないまま、声をかけてきたのは、さっき入ってきた男の客だった。ニューエラのキャップに、短く刈った白髪混じりの頭。腰履きしたカーキのパンツからは灰色の下着が少しだけ覗いていて、その無頓着さが妙に板についていた。何を返せばいいのかわからず、わたしは冷えたおしぼりを握り直して、その人へ目を向けた。

「ええ、まぁ。少し面倒なところに首を突っ込んでしまって」
「ああ、重い話はごめんだよ」

 わたしは何も返さなかった。全部がどうでもいい夜には、優しさより、こういう適当さの方が息がしやすい。

「福富町なんてそんなもんよ、はいビール」

 ジョッキを差し出した店主は、勝谷さんというらしかった。テーブル席の向こうでは、ひと足早く歓声が上がっている。

「お姉さん、んっ」

 男は小さなグラスをわたしに向けて掲げた。わたしも乾杯代わりに軽く会釈をすると、「カン」と鳴った小さな音は、次の瞬間には店中の歓声へ飲み込まれていく。客たちが一斉に腰を浮かせたところを見ると、どうやらベイスターズが大逆転したらしい。横では、さっきの男が目尻を下げて大将とハイタッチを交わしていて、その笑顔を眺めながら、わたしは何も感じないふりだけが少しずつ上手くなっていた。
 今思えば、その男が洋平だった。名前より先に、キャベツと冷えたジョッキの味を覚えた気がする。それだけの夜だったはずなのに、気づけば仕事帰りには「活」の暖簾をくぐるようになっていた。
 そんな時間が、少しずつ増えていった。眠れない夜は、秘密だけが静かに目を覚ます。あの頃のわたしは、息を吐くことすらどこか後ろめたくて、視線はいつも手元へ落ちていた。
 気づけば代金は彼が支払っていて、一人で来店しても「洋平につけとくから」と勝谷さんはさらりと言い、断る隙もないままそれが当たり前になっていた。店へ通う夜だけが少しずつ増え、串を頼むことにも迷わなくなった頃だった。

「ここ、生レバー食べられるよ。かっちゃん、レバー!」
「あのねぇ。洋ちゃん、でかい声で言うんじゃないよ」

 呆れた勝谷さんは、やれやれと肩を竦め奥へ引っ込むと、しばらくしてわたしたちの前には鮮やかな赤みを帯びた生レバーが置かれた。生姜とごま油の香りが、すっと鼻を掠める。

「なんだか知らねぇけどさ、食えよ」

 ごま油に浸した生レバーを口へ運ぶと、洋平が「うまいだろ」と満足そうに笑い、わたしは返事の代わりに、もう一切れ口へ運んだ。店の奥ではまた歓声が上がり、煙だけがゆっくりと天井へ溜まっていく。
 洋平は満足そうにビールを飲み、今日の勝敗に笑い、煙草に火をつけた。夏の夜は長く、赤提灯の灯りだけが静かに滲んでいる。そこには明日なんてものはなくて、あるのは今日だけだった。

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