休職日記64 「何者かにならなくても、人生は続いていく」
昔から、どこかに焦りがあった。
「何者かにならなければならない。」
そんな焦りだった。
仕事で結果を出す。
何かを成し遂げる。
人に誇れるものを持つ。
自分にしかできないことを見つける。
そしていつか、
「私はこういう人間です」
と胸を張って言えるようになる。
それが、大人になるということなのだと思っていた。
だから、自分が何者なのか分からない状態が怖かった。
何をしている人なのか。
何が得意なのか。
何を成し遂げたのか。
将来、何になりたいのか。
そういう問いに、きちんと答えられる人でありたかった。
仕事をしていると、その問いには比較的簡単に答えられる。
会社名がある。
所属がある。
職種がある。
仕事内容がある。
「何をしている人ですか」
と聞かれれば、仕事の話をすればいい。
名刺には、自分を説明してくれる言葉が並んでいる。
それは、とても便利なものだった。
でも、休職して仕事から離れると、その感覚が少し変わった。
会社員ではある。
けれど、会社には行っていない。
仕事もしていない。
毎朝決まった時間に出勤するわけでもない。
「今、何をしているの?」
と聞かれたとき、以前ほど簡単には答えられなくなった。
休んでいる。
本を読んでいる。
文章を書いている。
散歩をしている。
考え事をしている。
何もしていない日もある。
それまでの私なら、そんな毎日を「何者でもない時間」だと思ったかもしれない。
社会の中で役割を果たしていない。
目に見える成果もない。
肩書きを使う場面もない。
だから、自分の価値まで薄くなったような気がしたこともあった。
でも、不思議なことに、そんな時間を長く過ごしているうちに、少しずつ思うようになった。
そもそも、人間は「何者か」でなければならないのだろうか。
会社員であること。
専門家であること。
作家であること。
経営者であること。
何かに成功した人であること。
もちろん、そういう肩書きや目標には意味がある。
私だって、これからやりたいことはある。
挑戦してみたいこともある。
叶えたい夢だってある。
だから、何者かになることそのものを否定したいわけではない。
ただ、それが「自分の価値を証明するための条件」になってしまうと、少し苦しくなる。
何かを成し遂げなければ、自分には価値がない。
人より優れたものを持たなければならない。
結果を残さなければ、生きている意味がない。
そんなふうに考え始めると、人生そのものが終わりのない試験になる。
一つ結果を出しても、また次が必要になる。
一つ夢を叶えても、もっと大きな夢を求める。
誰かに認められても、もっと多くの人に認めてもらいたくなる。
「ここまで来れば十分」という場所は、たぶん永遠にやってこない。
休職する前の私は、どこかでその競争に参加していたのかもしれない。
もっと成長しなければ。
もっと経験を積まなければ。
もっとできる人間にならなければ。
止まったら、誰かに追い越される。
そんな感覚があった。
でも休職すると、その競争から突然降りることになった。
最初は怖かった。
周りが前へ進んでいるように見えた。
仕事をしている。
経験を積んでいる。
昇進する人もいる。
新しいことを始める人もいる。
その一方で、私は家にいる。
そんな自分を見て、
「自分は何をしているのだろう」
と思ったこともある。
けれど、休職中にも時間は流れていた。
朝が来た。
ご飯を食べた。
本を読んだ。
外へ出た。
文章を書いた。
誰かと話した。
笑った日もあった。
何もできなかった日もあった。
そして夜になり、眠った。
その一日一日は、何か大きな成果を生み出したわけではない。
履歴書に書けるような出来事でもない。
誰かから評価されるものでもない。
それでも、その日は確かに私の人生だった。
そこで、ようやく気づいた。
人生は、何かを成し遂げた日だけでできているわけではない。
成功した日だけが人生ではない。
褒められた日だけが人生ではない。
何者かになれた瞬間から、人生が始まるわけでもない。
何も起きなかった今日も。
何も成し遂げなかった今日も。
迷っている今日も。
立ち止まっている今日も。
すべて、自分の人生だった。
そう思えるようになってから、「何者かにならなければ」という焦りが少しだけ小さくなった。
そして面白いことに、焦りが小さくなると、逆に新しいことをやってみたいと思えるようになった。
以前は、何かを始めるとき、
「成功できるだろうか」
と考えていた。
失敗したらどうしよう。
才能がなかったらどうしよう。
時間を無駄にしたらどうしよう。
そんなことを考えて、最初の一歩が重くなることもあった。
でも、「成功しなくても自分の価値はなくならない」と考えたら、少し楽になる。
文章を書いて、誰にも読まれなくてもいい。
新しいことを始めて、うまくいかなくてもいい。
途中で「違った」と思えば、やめてもいい。
それによって、自分自身まで失敗作になるわけではない。
前回までの日記で、人生は何度でも選び直していいと書いた。
正解の人生を探すのをやめたとも書いた。
誰かに理解される人生じゃなくてもいいとも書いた。
それらは、すべて同じところにつながっているのかもしれない。
「自分の人生を、自分のものとして生きる。」
そのためには、誰かに認めてもらうための肩書きも、絶対に必要なわけではない。
もちろん、私はこれからも何かを目指すと思う。
夢を持つだろう。
目標も立てるだろう。
何かに夢中になることもあるだろう。
できることなら、結果も出したい。
でも、以前とは少しだけ違う。
夢を、自分の価値を証明するための道具にはしたくない。
成功しなければ意味がないとは思いたくない。
目標に届かなかった人生を、失敗だったとは呼びたくない。
夢は、自分を証明するためにあるのではなく、人生を面白くするためにあっていい。
そう思う。
これから先、私は何者かになるかもしれない。
何かを成し遂げるかもしれない。
自分でも想像していなかった場所へ行くかもしれない。
反対に、思い描いていたような人生にはならないかもしれない。
それは、まだ分からない。
でも、どちらでもいい。
肩書きが変わっても。
仕事が変わっても。
夢が変わっても。
何かに失敗しても。
私の人生そのものがなくなるわけではない。
何者かになったから、人生が始まるのではない。
成功したから、生きる価値が生まれるのでもない。
私たちはすでに、人生の途中にいる。
何者でもないと思っている今日も、その途中にある。
休職している今日も。
迷っている今日も。
立ち止まっている今日も。
全部、人生だ。
だから私は、もう「何者かになること」を急がなくてもいいと思っている。
なりたいものが見つかったら、目指せばいい。
やりたいことがあったら、やってみればいい。
そして何も見つからない日は、ただ今日を生きればいい。
人生は、肩書きを完成させるためにあるのではない。
誰かに自分の価値を説明するためにあるのでもない。
自分自身が、この人生を生きるためにある。
何者かにならなくても、人生は続いていく。
そしてきっと、
何者かになろうと必死だった頃には見えなかった景色が、その先にはある。
だから今は、急がなくていい。
今日を生きる。
明日になったら、また明日を生きる。
その積み重ねの先で、いつか何者かになっているかもしれない。
ならなくてもいい。
どちらにしても、それが私の人生なのだから。
いいなと思ったら応援しよう!
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。もし「応援したい」と思っていただけたら、とても嬉しいです。いただいた応援を力に、これからも書き続けます。

