詩の授業ってどうするの:宮沢賢治「永訣の朝」
国語の教科書にちょくちょく載っていて、1年に1回くらいは扱うことになる「詩」の教材。受験ではめったに出ない分野ですが、全くやらないという選択肢もとりにくい。
国語の先生とはいえ、多くの人が小説を読む訓練は受けていても、詩を読む練習はあまりしたことがないのではないでしょうか。詩の授業、なにを教えたらいいか困りませんか?「詩はわからなくていい。言葉を味わうだけでいいのだ!」なんて開き直るわけにもいきませんよね。
私は中高の国語の先生ではありませんが、近代詩を専門として研究しており、高専で国語を教えてもいます。というわけでこの記事では授業案……とまではいかなくとも、詩の読解・教授に際して「このへんがポイントになるんじゃないか」というところを示してみたいと思います。
なお今回の記事は、実際に私が行った「永訣の朝」の授業に基づいて執筆しています。授業では70分くらいかけてこの詩をやりましたが、50分に圧縮することも十分に可能かと思われます。
◯作者紹介
宮沢賢治はいまさらここで解説する必要もないかな、というレベルの文学者でしょうから、紹介の仕方はみなさまにお任せします。ちなみに「沢」か「澤」か問題もありますけれども、教科書では「沢」で載っていますし、私も「沢」派です。
また、妹トシとの関係については、本文の内容とも深く関わるところですから詳しく話しておいてもいいかもしれません。教科書にも多少紹介があることでしょう。
小学校では「やまなし」が、中学校では「雨ニモマケズ」や「注文の多い料理店」が、高校では「永訣の朝」が定番教材として取り上げられる宮沢賢治。小中高と教科書に登場する文学者は、他にいないとは言いませんが、かなり珍しいのではないでしょうか。
◯作品内容の理解
深読みの前にまずは作品内容の理解から。この詩は連に分かれていないので区切れ目がやっかいですが、長い詩なので適宜切りながら話を進めていきたいですね。
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
特徴的なのは、もちろんとし子の方言です。とし子の発話としての方言と、「わたくし」の標準語による語りとのギャップがこの詩の肝ですから、ここはぜひ生徒に音読させ、その「読みにくさ」を味わってもらいたいところです。
冒頭で、まず妹が「とほくへいつてしまふ」ことが示されます。念の為、この「とほくへ」行くという表現が何を指しているか、生徒に【発問💡】しておきましょう。クラスの中に2、3人くらいは、とし子が留学かなにかに行くと思いながら読んでいる生徒がいるからです。
冒頭部では「あめゆじゆとてちてけんじや」のリフレインが印象的です。もちろん、とし子が何度も「わたくし」に頼んだわけではないでしょう。「わたくし」には、心に刻まれたこの言葉が何度もフラッシュバックして聞こえてくるのです。妹にできる唯一のこととして……。
「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに」も面白い表現です。鉄砲玉のように、でスピード感が十分演出できるところ、「まがつた」がわざわざ付け加えられています。ここも【発問💡】ポイントで、これは「わたくし」の動揺や焦りを示したものだと解せます。瀕死の妹から自分の役割を与えられた「わたくし」は、それを必死で果たそうとあたふたしながら「おもて」に出るのです。
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
ここでのポイントは、「あめゆじゆとてちてけんじや」という依頼が「わたくしをいつしやうあかるくする」のだというロジックです。なぜこのような理屈が成り立つのか、ぜひ生徒に問いかけたいところです【発問💡】。もちろんとし子は、自身の死に際して、「わたくし」がなにか妹のためになることをできたのだという慰めを得られるように頼み事をしたのです。
本当にとし子がそうした意図で「わたくし」に依頼を行ったのか。ここも【発問💡】を行ってよいポイントだとは思いますが、詩の内部から正解を読み取ることは困難です。ただし、「わたくし」がそのように想像できるような関係性が、両者の間にあったのだということはわかります。また、「わたくし」のために依頼を行ったのだという想定は、「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」という終盤のセリフとも響き合うでしょう。とし子は自分の死に臨んでも、他者のことを慮れる人物なのです。
さらに、ここの「あかるく」という言葉が、「陰惨な」「暗い」などとされている雲の様子と対比されていることにも注目です。あとから改めて注目しますが、こうした対比関係の多さがこの詩の特徴です。「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」も、「まがつたてつぱうだま」に対応していますよ。
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
ここにも、熱と雪という対比の関係があります。この部分あたりは、ここまでの話がわかっていれば特につまづくところはないでしょう。
ただそろそろ気になってくるのは、「わたくし」が外で降っているものを「みぞれ」と言ったり「雪」と言ったりしているところです。雪をわざわざみぞれを言い換える必要はないのでおそらく実際にはみぞれが降っているのでしょうが、ではなぜそれがしばしば「雪」と言い直されるのでしょうか。両者を見比べてみればわかります【発問💡】。
・うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる
・このくらいみぞれのなかに飛びだした
・蒼鉛いろの暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる
・……ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまつてゐる
・こんなさつぱりした雪のひとわんを
・銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
・この雪はどこをえらばうにも/あんまりどこもまつしろなのだ
・あんなおそろしいみだれたそらから/このうつくしい雪がきたのだ
このように比べてみれば明白ですが、現実に降っているみぞれはとし子の死と呼応するように暗く、ネガティブなイメージが付与されています。逆に、とし子の最後の食べ物としてのみぞれは、清らかで真っ白な雪でなければなりません。だからこのみぞれ=雪は、「陰惨な雲」「暗い雲」ではなく、「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかい」、高く崇高なところから降るのです。その結果として「わたくし」は、「あんなおそろしいみだれたそらから/このうつくしい雪がきた」という対照を幻視することになります。
このイメージの複層性に注意しましょう。まずみぞれ自体が、雪と水が混ざりあったもの=「雪と水とのまつしろな二相系」という二重のレイヤーを有しています。そして「わたくし」はそのみぞれに、「とし子に捧げる清らかな雪」と「実際に降っている陰鬱のみぞれ」という、やはり二重のレイヤーを認めるのです。先程から繰り返されているこの「二相系」、これこそがこの詩を読み解く鍵になるでしょう。
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率の天の食に変つて
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
当然「Ora Orade Shitori egumo」が気になりますが、すぐに解釈ができそうにもないので、この段階ではスキップすることになるでしょう。この部分の【発問💡】ポイントとしては、とし子の「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」というセリフでしょうか。自分のことばかりで苦しまないようにする、とは要するに他者のために苦しみたいという意味ですが、少し意味が取りづらい部分となっています。
あと、最終部の「兜率の天の食」が「天上のアイスクリーム」のバージョンがあることも有名です。僕はやりませんでしたが、両者の表現を比較するのも【発問💡】として面白いですね。
さて、これでだいたい全体の意味を取り終わりました。すごくざっくり言えば、この詩は妹の死んだ日の出来事について詠んだ挽歌なのだということになるでしょう。挽歌というジャンルは今でこそあまり耳にしませんが、万葉以来の伝統的な枠組みですから、生徒にもこの機会に知ってほしいところです。宮沢賢治には「オホーツク挽歌」という詩群もありますよ。
◯「二相系」のみぞれ
いよいよ詩の解釈に入っていきましょう。私がこの詩の中で最も注目するのは、「雪と水とのまつしろな二相系をたもち」という詩句です。なぜならここまで解説してきたように、この詩自体にもたくさんの「二相系」を見出すことができるからです。生徒にも、できるだけたくさん見つけてもらいましょう【発問💡】。
既述のものも含めて、いくつか挙げてみます。
・雪と水 (みぞれ)
・清らかな雪と陰鬱なみぞれ
・熱を持つとし子と冷たい雪
・明るいおもてと暗い病室
・とし子の方言と「わたくし」の標準語
・書き言葉と話し言葉
・雪の降ってくる「天」と「わたくし」のいる「地」
・「まがつた」と「まつすぐ」
……などなど
そしてこの詩の中で最も重要な「二相系」は、死にゆくとし子と生きてゆかねばならない「わたくし」の二相系でしょう。両者の断絶=永訣こそが、この詩の主題だからです。
別れゆく二人の言葉は、もはや同じ水準にありません。とし子の言葉はわざわざ字下げされたうえ、( )でくくって示され、方言と標準語という点からも違いが強調されていくのです。
※なお、とし子の方言については小森陽一『〈ゆらぎ〉の日本文学』中の「永訣の朝」論が詳しく論じています。同論はさまざまある「永訣の朝」論の白眉で、本作を扱うならぜひ読んでみていただきたい論文のひとつです。
さて、ここまで準備すれば、詩で降っているのがなぜみぞれなのかも見えてきます。どうして、詩の中では雪ではなくみぞれという半端なものが降っているのでしょうか。それは、みぞれが雪と水ーーつまり「二相系」を包含する状態だからです。
この詩には、そもそも「二」が多いことに気がつかれたでしょうか【発問💡】。「わたくし」は「ふたきれのみかげせきざい」の上に立ち、「二相系」のみぞれを、「ふたつのかけた陶椀」に「ふたわん」取ろうとするのです。
これは、本当は変なのです。なぜなら、とし子の分だけならふたわんもみぞれはいらないからです。実際詩の中には、「こんなさつぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだ」という文句もあります。
では、もうひとつは誰の分か。一応【発問💡】してもよいですけれども、これは言うまでもなく「わたくし」の分です。実際に「わたくし」がみぞれを食べるか否かは別にして、「わたくし」は今までの生活をなぞるように、とし子と食事をともにしようとするのです。「わたくし」が選んできた器は、「みなれたちやわん」だと言うではありませんか。「わたくし」はみぞれを取るに際して、二人が使い慣れたお椀を、わざわざ選んでいるのです。
みぞれが「二相系」を内包しているように、「わたくし」も離れゆく妹と自身を結びつけようと必死です。ある意味では当然のことながら、「わたくし」は妹だけが違う世界へ旅立ってしまうことを受け入れきれていません。そのことは、続編ともいえる「松の針」を読めばよりはっきりとわかります。
ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ
ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言つてくれ
「私たちはずっと〈ふたり〉だったではないか。なぜおまえは〈ひとり〉で死のうとするのだーー」これが、この詩で繰り返される「二」が訴えるメッセージでしょう。
◯とし子と「わたくし」
このように考えれば、「Ora Orade Shitori egumo」という謎めいた詩句の意味もなんとなく見えてきます。
私たちはローマ字を知っているので、この語句の音をとることはできます。ただ、音だけで示されるローマ字では、意味がすんなりとは入ってきません。たとえば方言を介さない読者の多くがとし子の発言を実際に耳にしたとき、このように音ととしてだけ彼女の発言が聞こえることでしょう。ローマ字はここで、「音」と「意味」という「二相系」の分離を示します。
もちろん「わたくし」にはとし子の方言がわかるはずですし、実際にほかの発言はローマ字になっていません。では、この発言の何がほかの発言と違うのか。先程までの「二」の話を踏まえながら考えてみましょう【発問💡】。
このように見ていくとひっかかるのはこの「shitori」=「一人」です。「二人」にこだわる「わたくし」にとって、この「shitori」は理解したくない言葉であるはずです。だからこそこの言葉は、意味にならない音としてのみ、表記されなければならなかったのではないでしょうか。
互いを思い合い理解し合っているように見えるとし子と「わたくし」ですが、この「永訣の朝」に両者が見ている景色は少し違います。とし子は自身が「shitori」で逝くことを受け止めながら、生き残っていかねばならない兄のために頼み事をしたのでした。
また、兄と妹という「二相系」にこだわる「わたくし」に比べ、とし子はもう少し広いところを見ているようです。「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」が他者のために苦しむことを含意しているというのは先に確認したことですが、ここでの他者とはおそらく兄を含む多くの人々が想定されていると解せます(そうでなければ、「次はもっとお兄さんと長く生きていきますよ」のような表現をとるはずです)。とし子は「兄と妹」という「二」ではなく、大乗仏教的な「全」を意識しているようにも見えます。
詩の中にはこうしたささいなすれ違いも含まれているのですが、しかし「わたくし」の「二」へのこだわりということを軸にして読んでいくと、「二」から外れる部分があることに気づくでしょう【発問💡】。引用しましょう。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率の天の食に変つて
やがてはおまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
「やがてはおまへとみんなとに」に注目しましょう。これまでの詩の流れなら、「おまへに」で十分意味が通るはずのところに、わざわざ「みんな」が含まれています。ここでは「わたくし」もとし子だけでなく、より広い「みんな」の幸福を祈るようになっているのです。詩のなかで生じていた「わたくし」ととし子とのささいなすれ違いは、このようにしてさりげなく解消され、作品が締めくくられます。
◯まとめ
ここまで読んでいただければおわかりでしょうが、この授業にはかなり私なりの読みが入っています。文学の授業、まして詩の授業なら、より多様な読みの可能性を許容すべきだという見方は当然あるでしょうし、実際そのような言説は多数見かけます。
ただ注意しておきたいのは、生徒にディスカッションさせて「いろんな読み方がありますね」と締めくくってしまうことの欺瞞は、生徒に必ず分かってしまうのだということです。そうした授業から生徒が学ぶのは読みの多様性ではなく、「要するにどう読んでも個人の自由ということなのだ」という読みの放埒な自由だけではないでしょうか。
生徒にさまざまな読みをさせて眺めているあいだ、教員は安全地帯にいます。自分の読みを教室で示したとき、始めて彼ら彼女らと同じ土俵に立つことになるでしょう。もし教員の読みに違和感を覚えた生徒がいたならば、彼・彼女は教員が見落としたどこかの本文を無意識のうちに拾ってきているのです。生徒がそのような違和感を抱いたとき、本当に国語の授業が始まるのだと言えましょう。そのとき彼ら彼女らは、教員の読み方をいわば鏡として、自分たちなりの読みを立ち上げようとしているのです。
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