【ピリカ文庫】勝負
小さな小説を書くきっかけをいただきました。感想があればコメント欄で教えていただけると嬉しいです。
仕入れから戻り、やっぱりお腹が空かなくて「今朝は朝ごはんはいらない」と家族に伝える。今までだったら「ちゃんと食べたほうがいいよ」「食べないと動けないよ」と言われ困っていたけれど、今は誰も何も言わない。これをありがたいと言っては誰かに怒られるのかもしれない。
仏壇から離れる。白湯だけ飲んで支度をする。玄関は石畳、古い家だ。長靴が3足並んでいたそこは、今は1足。春海のピンク色のものだけだった。
「もう1ヶ月経つんだから慣れないとね」
春海はつぶやいて、ひんやりとしたそれに足を片方ずつ入れた。
春海の家は古い商業地区の一角にある小さな魚屋だ。家の玄関を出るとそのまま店舗につながっている。小学生の頃、友達を連れてくる時に店の中を通らなければいけないのが苦痛だった。クラスメイトから陰で魚臭いと言われたのを知り、この家業を心底嫌になったこともある。でも、今思えば、本当に家中魚くさいんだから笑ってしまう。毎日、毎日、母と祖母はここで魚を仕入れ、捌き、卸し、春海を育てた。
「私一人だってできるよ、仕事は。ばあちゃんなんて、もう手が震えてたんだし、母さんだって、スピード感がなかった。私が一人でやったほうが早いとすら思ってたくらいなんだからさ。」
葬式の後、春海を心配するえんちゃんに言った。
「おいおい、そんなこと言ってやるなよ。おばさんたちだって、最後まで頑張ってたんじゃねえか。」
春海は、言われたことは絶対言い返す。相手が黙るまで言い返さないと気が済まない。でもこの時は、妙に黙るのでえんちゃんは心配したようだった。
店の灯りをつける。光る大量の発泡スチロール。春海が今朝仕入れた魚たちだ。
宝箱みたいだ、と春海は思う。この白く積まれた箱たちを開け、中で艶やかにいかっている魚たちを見る。目を見る。触ってぬめりをみる。春海は捌き始めたら早い。左手は規則正しく動き、首の根元を探し当てる。右手の出刃で体重を軽くのせ、肉と骨を一度に切り離す。春海と魚だけの時間。潮の匂いと、骨が切れる音だけが辺りを包む。
曇りガラスの向こうに人影ができる。最近、毎朝くる。
「はい、どーも。」
扉が開いて閉まる。いつ何時も店の鍵は閉めない。これはばあちゃんからの言いつけだった。
「商売の神さん、入ってくるだろこうしてりゃ。泥棒なんて来たって持ってくもんねえの」
ばあちゃんはいつも「金がない」といっていた。
「金がねえってのはつよいんだ。何も失うもんがねえからよ。好きなだけ働いて、食べて、寝て。誰もそれを邪魔しねえ」
そう言いながら、私のために金を残してくれていたと知らなかった。この店を潰して、自由に新しいことを始められるくらいの金。春海だってその金額を見て、いろいろなことが頭をよぎった。でも続けることにした。
「大変お待たせいたしました、朝食の出前でございまーす。」
目の前に置かれたのは、食事処きんぱくの朝定食。こんなもん頼んでない、と言いかけていつもそれが放つ湯気にやられてしまう。大根おろしにはたっぷりの雑魚がのり、上から自家製のポン酢がかけられている。出汁巻には、きざみ葱と桜海老が入っている。お麩入りの味噌汁と韓国海苔。そしてイカの塩辛も。これは店のメニューじゃない。春海が小さな頃からずっと好きだったものだ。ばあちゃんも母さんもいない今、春海の好きなものはこの男だけが知っている。
食事処きんぱくは、向かいの隣のそのまた隣にある大衆食堂兼居酒屋。20席の店をえんちゃんが一人で切り盛りしている。えんちゃんはその家の息子ってわけじゃない。いきなり都会から現れて、下積みして、店を継いだ。このあたりでは、珍しいから有名な話だ。
「黒いネイルを塗った。見て。」
えんちゃんは手を広げて春海に見せる。
「手元がすごくバチっとしていて、いい。仕事がはかどるんぜ。」
「そんなのしてたら、客が文句言わない。」
「言わないね、それが。誰か言うと思ったけど。」
「もう金髪でピアスだらけだもんね。」
「爪くらい塗ったってね。」
「もう、帰って寝なよ。」
「お前、この店一人で続けんの。大変だろ。辞めちまいたいとか思わないの。」
「何言ってんのよ。これからが勝負だってのに。幸先悪いこといわないで。」
「それならいいけんどさ。そういえば今夜、俺も勝負があるんだ。」
「なに。」
「店に見にこいよ。派手になるぜえ。」
えんちゃんはこうしていつもヘラヘラしている。
食べて、捌いて、卸した。昼になった。
包丁を研いで、春海は外に出た。なんとなく雨っぽくて、大丈夫かなと思っていたら降ってきた。気にせず、フードをかぶって歩き続ける。ピンクのセーターを着た柴犬とすれ違う。すごく愛されて飼われているんだろうな、と想像する。連れているおじさんは上下のジャージでずぶ濡れになっていたけれど構わないようだった。お揃いのピンク色のマフラーをしていた。
きんぱくの夜の仕込みは16時から。えんちゃんの休憩は22時。それから1時まで頑張る。片付けて2時。食べて吸って3時。ちょっと寝て、春海に朝飯を運ぶ。
行くとやっぱり店の前で吸っている。春海に気づき、火を消した。
「見せてよ、勝負。なにすんのさ」
「みて。さっきなお前の真似して捌いたら、指切っちまった」
「そんなんじゃ商売にならないね」
「やっぱり、じゃあ、おめえに頼まねえとダメか。あれは」
「あれって。」
「捌いて、その場で食べさせる店ってどう。連れてきた魚、客の目の前で開いて、そのまま皿に乗せて出してやる。」
「うまいだろうね。」
「俺んとこ広げるから。おめえんとこ払ってうちこい。」
「うちこいって、あんたのとこで魚さばけってわけ。甘くみんじゃないよ、うちが何代・・・」
「口開け」
「なんで」
「口開けよ」
「いやだね」
春海は、絶対開かない、というように口を縛った。えんちゃんは突然、春海の首を両手で締め始めた。魚の血がべっとり付いて、えんちゃんの手はぬるぬるとなま温かい。冗談ではすぎるくらいに、容赦なく締め上げていく。春海が息を求めてパックリ口を開けると、そこに硬いものが放り込まれた。歯茎に当たり、それは冷たい。
手が離れた。
春海は咳き込みながらそれをべえ、と出して珍しげに眺めた。
「こんなもんつけてたら、仕事にならん」
「言うと思った」
えんちゃんはまたヘラヘラしている。
「それやるから、おめえんとこ払ってうちこい」
春海に背を向けて、きんぱくの中へ入っていく。その背中に投げるみたいにして春海は叫んだ。
「これじゃ足りないね。友達に見せびらかす用に、もう一個ほしい」
今度はえんちゃんが口をパックリ開けた。
「すっごくでかいダイヤがついたやつ。それくらい買いなさいよ。儲かってるんでしょ」
開いた扉からお客さんが、騒ぎを聞きつけて集まって来た。
えんちゃんは春海に近づき、首についた魚の血を舐めとった。
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自分を許して、大好きな釜揚げうどんを食べに行きます。ありがとう!