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「何語でお話しましょうか?」と聞かれるのが当たり前の国〜スイスで出会った『話す前の思いやり』〜

 日本では、声をかければ日本語が返ってくるのが当たり前だ。しかし、スイスでは違う。話しかけると、当たり前のようにこう尋ねられる。

『何語でお話しましょうか?』

 スイスでは、3カ国4カ国語が当たり前。相手が子どもであったとしても、最初にこう尋ねてくるのだ。

 
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 昨日の朝、朝のうちに必要なものがあり、夫を送り出してから、7時開店の近所のスーパーへ。通勤•通学の人たちが結構いる。
 買い物を終えて帰ってくると、建物の入り口にお向かいのお宅の娘さん(7歳)の姿が。私の姿を見つけると、にっこり笑って手を振ってくれた。
 彼女は、毎日お父さんに学校まで送ってもらうのだけれど、先に降りて来て待っていたようだ。

 いつもと違って、前髪を数箇所捻って、3種類の色のゴムで留めている。見事な仕上がりだ。思わず「お髪が素敵ね♪」と話しかけたが返事がない。ああ、そうだ、ご両親は私と会うと英語で話しかけてくるが、この娘さんはまだ英語が話せなかったのを思い出す。
 ドイツ語に変えて伝えると、可愛い声で“Danke”と返ってきた。良い一日をね、と伝えて部屋に戻る。


 ご両親はイタリア人。ドイツ語は勿論堪能で、英語も話せる。超美人の奥さんと立ち話した時に、産まれたばかりの赤ちゃんの話をして名前を尋ねたら、イタリア名だった。
 何語で育てるのか聞いてみたところ、上の娘さんと同じとのこと。ドイツ語は必要なのでまず教えるが、家ではお母さんとはイタリア語、お父さんとはフランス語でも話しているそうだ。
 羨ましい。家に居ながら多言語学習が日常なのだ。

 この家のご主人は明るく気さくで、子育てに関わる様子がとても素敵だ。娘さんと買い物やサイクリングに出かけたり、近所の行事も楽しそうにこなしている。
 地下の駐車場で会った時は、自転車の前に屋根付きの大きいベビーカー(こちらでは一般的な自転車専用のもの)を取り付けて、颯爽と走って行った。
 駐車場出口のところはかなりの坂で、更に曲がり道になっているので、車でも出入りには気を違う。リモートで出口を開ける必要もあるが、それもさりげなくこなし、加速して曲がって上っていく様子が実に見事で、夫も思わず「かっこいいなぁ」と話していた。
 言語教育も子どもへの接し方も、実に理想的で見事だといつも感じる。
 

 この家に限らず、地続きのヨーロッパでは、多言語を身につけた人が当たり前のようにいる。
 以前、多言語学習のことを書いた折、スイス人の多言語の見事さを書いたことがある。ロープウェイ🚡乗り場の受付のお兄さんの話。



 更にスイスをうろうろしてみると、大抵ドイツ語でOKなのだけれど、ある街では交通標識にイタリア語が使われていたり、他の街では気づいたらフランス語で話しかけられて、今私どこにいるんだっけ?  どれも普通に使われているので、何語で話せばいいの?とわからなくなる。
 観光地では大変明快な対応もしてもらえる。
「英語かな? ドイツ語? イタリア語? フランス語? どれで話したらいい?」と最初に英語で話しかけられた。
受付にいた案内のお兄さんの話だが、こちらがどれを指定しても話せるのだ!

本文より


 観光立国であるスイスでは、多言語が必要な場面が多い。スイスを囲む国々の言語は、働く人にとって、ちゃんと案内する為には必要不可欠なのだ。

 スイスの美しい景色や山への憧れや、『ハイジ』で子どもの頃から好きになった人も多いので、日本人観光客も大変多い。その為、スイス人の中には、簡単な日本語が話せる人も多い。

 マイエンフェルトの土産物屋の奥さんは、ずっと英語を話していたのに、
「郵便を出すならこの切手」とそこだけ日本語だった。
 これだけでも日本人にはありがたい心遣いだ。これこそ観光に関わる人としてのホスピタリティというものではないか。

 観光地各所で、列に並ぶ観光客への彼らの説明はとても丁寧だ。観光客から質問される内容も様々であるから、それに対応できる見事な語学力を示してくれる。

 フランスで、係員に質問しても「知らない」「わからない」と簡単に片付けられる経験を何度もすると、このスイスの人たちの対応は神様のようにありがたく感じるのである。


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 先週の金曜、『あさイチ』を観ていたら、プレミアムトークで宮沢氷魚さんが出演していた。『べらぼう』の田沼意知役や、『幸せは食べて寝て待て』の司役もとても良かった。
 アメリカ生まれ、東京育ち、インターナショナルスクール出身で、アメリカの大学に行っていたということで、英語は勿論堪能だ。海外のオーディションでイギリスの政治家などが使うオックスフォードイングリッシュを求められる場面もあるので、正統派の英語も学んだという。

 香港で開催された、アジアの優れた映画作品を表彰するアジア・フィルム・アワードにおいて、最優秀助演男優賞を獲得したそうで、壇上では英語のスピーチを行っていた。(それを聞く華丸さんは「クーーーッ👍✨」と声が出ていた)
 主演の鈴木亮平さんと松永大司監督に呼びかける場面では、そのスピーチを聞きながら、鈴木亮平さんが涙する姿も映し出された。鈴木さんもまた英語が堪能な人である。

  画面はスタジオに戻り、司会の大吉さんが、
「亮平さんもね、英語ができる方だからね、『英語のスピーチを聴きながら泣く』という‥‥ちょっと次元が違う」と感動していた。

 私も感動的な場面だと思ったし、美しい英語だと思って眺めていた。しかし『次元が違う』の言葉には、その時少し違和感があった。

 ああ、そうか、日本ではそう感じるのだ、と改めて思う。戦後数十年、皆が英語を学んできたけれど、やはり英語を話せる人、ネイティブの人は特別な人たちであり、この場面のように、お互い日本人でありながら英語の会話で理解し合う人たちは『次元が違う』という扱いなのだ、と。
 鈴木亮平さんも宮沢氷魚さんも、英語が話せることで、日本人の中で高いスペックを持つカッコいい人として格付けされるのだ。


 昔、個人教授を頼んでカフェ(お茶代もこちら持ち)で英語を習っていた時、講師の彼(日本語は全く話せない。英語のみ)は、打ち解けてきた頃、
「僕が英語話すだけで、女の人たちってキャーキャー言うんだよね♪」と自慢気だった。軽い奴だ。
『だって母国語でしょ?!』と思ったが、“Is that so?”を使う場面だと思って、それだけ言って我慢した。

 その辺りから、[英語が話せる外国人]であった講師が、[英語が話せるだけのアホな外国人]となった。慣れると遅刻ばかりするようになり、更に、
「君のレッスンは楽なんだよね〜。ちゃんと勉強してくるし、僕はただ喋っているだけでレッスン代はもらえるし、お茶は奢ってもらえるし」と本音を口にするようになった。
 で、嫌になってクビにした。はっきり理由を言っても「何故かわからない💦」と言うので、「日本に住むなら、日本人の考え方を理解せよ。仕事のつもりなら遅刻もするな」と言っておいた。
 あやつが話す英語を聞くだけでキャーキャー言った奥さんたちも問題だ‥‥


 日本人の英語コンプレックスはこれからも続くのだろう。
 日本に帰ったら、日本語だけで済んでしまうのだなぁと思うと、安心であるし、少し不思議な気持ちにもなるし、それが少し寂しくもある。


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 日本語は、勿論素晴らしい言語だと思うし大好きだ。繊細な言い回し、可愛らしい響き。
 『アナと雪の女王』で、各国の映画の吹き替えをした人たちが歌う『ありのままに』が話題になった。歌を少しずつ区切って、それぞれの言語で歌う試みだ。
 海外の人からは、松たか子さんが日本語で歌う“ありのままの姿見せるのよ〜♪”の部分の反響が大きかったという。

 何故か?  声が綺麗で歌が上手いのは勿論であるが、日本語の発音が可愛いのだ。他の言語とは違う、はっきりと一語ずつ発音される母音の響きがとにかく可愛らしい。
 そう評価されるのは、日本語を話す一人として、とても楽しいし嬉しい。

 noteの中で、日本語の探究をなさり、歴史を語り、現代では忘れかけられている雅な言葉をお使いになる方がいらっしゃる。
 理生(りしゃう)様の記事を拝見すると、毎度圧倒される。語られるテーマの多彩さに驚き、日本語の由来や面白さ、美しさを再認識するのだ。
 


 理生(りしゃう)様の記事を拝見すると、その言葉自体や使い方の美しさ、知識の深さと思考の在り方にひれ伏したくなる。
 『私は一体日本語の何を知っているのだ』と恥ずかしくもなるのだ。
『多言語を学ぶ以上に、日本語を学べ』と自分の中の何かが叫ぶ。


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 先月、バレエを観に行ってきた。白鳥の湖を元に構成された、オリジナル3幕物である。
 席はバルコニーの2階。クロークに寄ってから席を確認しようとすると、階を勘違いしたことに気づいた。
この劇場のホールからメインの階段を上がると、そこはバルコニーの3階フロアになってしまう。反対側の階段を利用しなければいけなかった。
 階段を降りて、席の確認を済ませて、まだ時間があったので、カクテルを飲みに行き🍷、プログラムを買い、舞台が始まるまでの時間を楽しんでいた。

 席は通路のすぐ横なので、真ん中の席に入る人たちが来る度に立ち上がらなくてはならない。歴史ある劇場は座席のスペースが狭いのだ。
 そろそろいいかな、と思って会場に入ると、おや?私の席に年配の男性が座っている。

「すみません、そこは私の席です」と斜め後ろから話しかけた。この時はドイツ語で。
 振り返った顔を見たら、おや、日本人ではないの。顔つきや服装、戸惑い方が明らかに日本人だ。
「日本の方ですか?」と日本語で言う方が良かったかもしれないが、男性は憮然として、『何を言ってるんだ、こいつ。ここは俺の席だ』という雰囲気を醸しながら、私を上から下まで眺めたのだ。
 少し意地悪な気持ちになった。
 この劇場のチケットに表示されたバルコニーの階は分かりにくく、間違えるのはドイツ人でもよくあることだ。
 こういった場面でも、皆和やかな雰囲気で自分のチケットを出して、自分が間違っていないか確認する。間違っていたらニコニコして謝って移動する、「良い夜を!」と声をかけて。

 しかしこの時の男性は、自分の席だと思い込んでいる上に、ドイツ語で話しかけられた為に、そういう態度になったのだと思う。
 するとその三つ隣の若い男性がこちらに話しかけてきた。英語だ。どうやら年配の男性の息子さんのようだ。ご両親と親戚の女性の案内といったところだろう。

 息子さん(ということにした)に、私のチケットを見せ、ここが私の席なのだと話すと、彼は間違いなくここは我々の席だと言う。バルコニーの中央部分に一段低い席があり、そこを指差して、あなたの席はそこではないか、と言ってきた。

 埒があかない。私はこの劇場に何度も来ているので、間違いはない、と確信して話しているのだが、これは無理だ、と思った。
「わかりました、確認しますね」と答えて、その場を離れたが、彼らは『やれやれ』という空気を出していた。

 こういう場合はプロに任せるのが一番だ。外に出てドア毎に立っている係員に話しかけた。
「私の席に他の人が座っていて、伝えましたが移動してくれないのです」
 係員は、よくあることなので、はいはい、とすぐ歩き始めた。この劇場のスタッフは朗らかで親切な人が多い。飲み物やプログラムを買うだけでも、ニコニコしながらお喋りをしてくる。
 
 係員は私の席に行き、息子さんに「あなた方は上の階ですよ」と伝えた。
 彼らは無言で立ち上がった。年配の男性は戸口の近くにいた私の横を通っても、こちらを見ようともせず声もかけてこなかった。
 最後に内側の息子さんがやって来て、すこし恥ずかしそうな笑顔で、ドイツ語で「失礼しました」と頭を下げてくれたので、私も「いいんですよ」と微笑んでドイツ語で答えた。

 あれ?最後の挨拶はドイツ語かぁ、と思ってよく考えてみたら、息子さんと話し始めた時、私は英語を話しながら、ところどころドイツ語が出てきてしまって、何回か英語に言い直したのだ。席の番号とか、いくつかの単語を。
 よって、考えたところ、息子さんの頭の中を予想すると、
『この人は日本人っぽいけれど、僕たち日本人に向かってドイツ語で話しかけてきたし、英語を喋ってる最中にちょこちょこドイツ語が混じったから、恐らくこちらに住んでいて、普段はドイツ語をメインに話すのだろう。発音はうまくないけど。移民かな?
じゃあ、謝るならドイツ語だな』
多分こんな感じだと思う。でなければ、別に英語で挨拶すればいい話だ。

 席について、それを考えていたら、面白くなってしまった。日本人同士なのに、おまけに私の下手くそなドイツ語と英語で話したのに。

 私か息子さんが、どちらかが、
「日本の方ですか?」と聞いてさえいれば、年配の男性の態度も変わったかもしれない。異国の地で異国の言葉で話しかけられて、席が違うと言われれば、何だかムッとしたくなるのもわかる。
 ごめんね、お父さん(らしき人)。でもいかにも日本人っぽく、曖昧な態度で、何も言わずに立ち去ったのはマナー違反だ。
 間違ったのは案内した息子だ、とイラッとしていたかもしれない。しかし、ちょっとした挨拶の言葉は必要な場面だ。日本語でも英語でもなんでもいい。通り過ぎる時に、頭をちょっと下げるだけだっていい。
 それが大人の対応ではないか、と思う。

 舞台が幕を開けた。それを眺めながら、ふと気づいた。
[日本人同士なのに、たまたま外国にいたので、お互い何語で喋るのかわからず、うっかり日本語以外で話してしまった]
 これは私が昔からやってみたかった事の一つだったのだ。たまたまのシチュエーション、話せる内容のレベル、こうした条件が揃わないとできない事なのだ。
 
 他の言語と日本語を行ったり来たり、という夢は、以前日本に留学経験のある人との会話で、機会に恵まれた。
 息子さんが席を間違えて案内してくれたおかげで、また今回お互いを知らない人同士であったので、条件が揃い、この夢が叶ったのだった。

 オーケストラの音が高らかに響き渡る中、主役が登場した。高身長で美形。悲しげな演技がよく似合う。なかなか良い舞台になりそうだ。


 自分の多言語学習における小さな夢の項目を思い出し、思いがけずそのうちの一つが今夜叶ってしまったことが、何だか無性におかしくて、思わず笑いそうになる口元を押さえた。

 スイスの人のようににっこりして、
「何語で話しましょうか?」
当たり前のようにそう言える人に、私はなりたい。

                   おしまい



【あとがき】
 この記事の公開後、武智倫太郎様より、[多言語環境]についてのご指摘をいただいた。武智氏の記事のコメント欄にて。
 何故この私のコメント欄ではないのか(T ^ T)  ‥‥それはコメントの流れとノリによるものである。

 私が書こうとしているキモがここにある。それは私がまさに言いたいことであって、[書こうとしているが、書き足りない状態で終わっている重要なポイント]を、何故、他の人が的確に書けるのか、更に、より高尚な内容へとグレードアップされるのか、毎回頭を抱えるところである( ⌯᷄௰⌯᷅ )
 『誠にご親切にありがとうございました』とモザンパーク方面にご挨拶する🙇‍♀️
 折角教えていただいたので、本文を修正しようかと思いつつ、ご指摘をそのまま載せておこう。
 ああ、noteは修行だ‥‥



EU諸国で最もマルチリンガルな国といえば、やはりルクセンブルクでしょう。
子どもは幼稚園から3言語(ルクセンブルク語・ドイツ語・フランス語)に触れ、小学校高学年にはトリリンガルが当たり前。さらに英語も学ぶため、実質的に4言語を自在に操る若者も珍しくありません。
そのほか、オランダ・スウェーデン・フィンランド・スイスなどでも、英語を含む複数言語の運用が日常化しており、こうした国々では『マルチリンガル』は『才能』ではなく『前提』として社会に根付いています。
一方、日本ではいまだに『英語が話せると凄い』『三か国語が話せると語学の天才』といった感覚が強く、これらの現実があまり共有されていないのが現状です。

EUだけでなく、東南アジア・インド・アフリカ諸国などでも、旧宗主国の言語+現地語などの多言語環境が当たり前となっており、『言語は才能ではなく、環境と制度の結果である』という事実は、もっと広く知られるべきだと思います。

Violaさんがnoteに綴っておられる日常の描写も、『多言語が当たり前である』という実感を伝える貴重な証言になっています。ぜひ、その点を強調していただけると、多くの日本人読者にとっての気づきにつながると思います。
ちなみに、『日本語しか話せない日本人』の中でも、実は津軽弁と薩摩弁ではそのままでは通じ合わない、という事実を示すと、多言語環境の理解が一気に進むかも知れません。
方言と標準語を瞬時に切り替える日本人の言語能力もまた、立派な『バイリンガル性』の一形態といえるでしょう。

コメント欄より抜粋


 書くべきポイントは、自分でちゃんと考えて書ける、そういう人に私はなりたい‥‥


 

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