絵を描き始めた人は、宇宙とつながったのではない
人生後半で芸術的な領域、創造性に近づいていくのはなぜだろう…
施術に通ってくださる方の中に、還暦を過ぎてから急に絵を描き始めた方がいる。そうかと思えば、俳句や陶芸を始めた方もいる。
若い頃には見向きもしなかったことだと、少し照れたように、それぞれポロッと僕に伝えてくれる。
しかし、なぜ、人生の後半なのだろう。
施術家として身体に触れていると、ある時期から身体の方が先に知っていることに気づく。筋肉の張り方、呼吸の浅さ、動きの制限。
それは単なる衰えではなく、時間が有限であることを、言葉より先に身体が受け取っているように感じる。頭で理解するよりも早く、手のひらの下で、身体はすでに知っている。
有限性を知った身体は、なぜ諦めではなく、創造に向かうのだろう。
一つの仮説があるらしい。
それは、個としての輪郭が薄くなっていく感覚と関係しているのではないか、ということ。宇宙全体とつながっているような、自分という境界が溶けていくような一体感覚。
それは若い頃には意識に上らず、無意識の奥に沈んでいたものなのか。
けれど人生の後半になると、その感覚が少しずつ表面へと流れ出してくる。個であることへの執着が緩むほどに、その奥にあった何かが、“ほら、そろそろだよ”と言って、外へとこぼれ出てくるのかもしれない。
……と、ここまで書いて、ふと手が止まる。
本当にそうだろうか。
一体感、宇宙とのつながり。聞こえはいい。だが150,000セッション分の手のひらが記憶しているものは、もう少し身も蓋もない。
還暦を過ぎて絵筆を握った人の肩に触れたとき、そこにあったのは「溶けていく個」ではなく、むしろ生まれて初めて自分だけのために動く、うぶな筋肉の硬さだった。
え、と思った。順番が逆だったのだ。
個が薄れるから創造に向かうのではない。
何十年もかけて、家族のため、会社のため、世間体のために張り詰めてきた身体が、ようやく“もう誰の目も気にしなくていい”という許可を自分に出した。
その瞬間、初めて「自分ひとりのためだけの動き」が生まれる。
一体感どころか、人生でいちばん利己的な瞬間。それが創造の正体だったりする。
𝕏をみていても、定年を過ぎたおじさんが、「AI画像に目覚めてしまいましたー」といったポストを散見する。
それが、可愛いアニメ風の女の子の水着だったりすると、一瞬力がぬけて、「いいじゃないですか!」と応援でもしたくなってくる。
あれは宇宙とつながっているのではなく、たぶん、生まれて初めて「誰得?」を気にせず作っている顔だ。
施術の現場でも、似たようなことが起きる。
手を当てているとき、こちらの意図を超えたところで何かが動く瞬間。
技術のためでも、患者さんに評価されるためでもなく、ただ手が「今、これがしたい」と言っている瞬間。
それは施術にも、創作にも、共通しているように感じる。
なぜ人は、消えていくとわかった時に、何かを作りたくなるのだろう。
答えは案外シンプルなのかもしれない。誰のためでもない自分に、やっと出会えたから。
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