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日本人なのにスペイン料理?

スペインの地で妻となり、嫁となり、母となって数年後のある日、一緒に夕食を食べようと友人夫妻がやってきた。わたしが調理をする横で、猫がじゃれるのを見るような目でわたしを見ていたモンティが言った。

「あなた、スペイン人よりスペイン料理が上手くない?」

褒め言葉だとわかっていた。モンティは自他共に認める「食べる担当」だし、彼女よりも料理が上手な人は多い。この日も、わたしが作ったピーマンの焼き料理を何度もお代わりし、余った分をタッパーに入れて持って帰った。でも、白状すると、この時は少し複雑な気分だった。

スペイン料理が上手いと言われる時に、「日本人なのに」という前置きがついてくることがある。その「なのに」の中に、無意識の線引きが存在する。誰にも見えない深い線。あなたはこちら側じゃないけど、よくできてるね、という暗黙の壁。

この言葉さえなければ、誉め言葉だと素直に受け取れるのに、「なのに」とあるだけで、自分が日本人であることを否定されているような気分になった。たった三文字の呪縛。

もちろん、言葉の発せられた状況や、受け取る側の理解の仕方によって変わるのだろうけれど、「のくせに」「のわりに」「にしては」と四文字に置き換えるとやっぱり醜くて嫌いだった。

でも、今となっては、その「よそ者」「蚊帳の外」の視点こそが、わたしにとっての財産だと思っている。

日本人がそうであるように、スペイン人は、自国の料理を「当たり前」として育つ。だから見えないことがある。外から来たわたしにとって、すべてが新鮮だった。なぜこの食材を使うのか、なぜこの順番で調理するのか、なぜこの時間に食べるのか。なぜこんなに美味しいのか。

それはわたしが、「よそ者」だったから。

バルで食べた揚げたてコロッケが美味しくて、スケッチ画として書き残し、丁寧に色まで付けたというのに、冷凍コロッケだったこともある。それでも、「当たり前」がないからこそ、好奇心が動く。

外側にいる経験は、内側にいる人には見えないものを見せてくれる。

それは、料理だけじゃない。暮らし方、服装、人に対する見方も、一歩外れた場所から眺める目を持つことで、見えてくるものがある。

32年経った今、わたしはこの国で「よそ者」のままでいることを、少し大切にしている。

「スペインと日本、どっちがいい?」

今までに、数えきれないくらい何度も聞かれた質問。

どっちも私の国。1つの月や太陽を分かち合い、地中海と日本海は同じ海水で繋がっている。「なのに」のたった三文字に反応してしまうのも、境界線を引いているのはわたし自身でしかない。本当は、境界線なんて存在しない。

真っ黒な線にするのも、七色の線にするのも、頭から「境界線なんてない!」と決めるのも自分次第。「よそ者」なのか「中の人」なのかも、結局のところ、自分で決めればいい。

——
Sensory Stella

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