短編小説「記憶の中の窓辺」#一枚の写真から文芸賞
窓から見える町を眺めている記憶は、いつも、自分の後ろ姿から始まる。
オレンジ色の瓦屋根が波のように連なり、その向こうには、午後の光を弾いてきらめく海が見える。眼下へ続く石畳の坂道を、路面電車がゆっくりと下っていく。窓の外に広がる風景は、いつも同じ。完璧な一枚の絵画のようだ。
だけど私の記憶のピントはそこには合っていなかった。
なぜなら、私が本当に気にしていたのは、目の前に広がる美しい町の姿ではなかったからだ。私が気にしていたのは、そんな私のことを見つめている、あなたの視線だった。
あなたは、世界のあらゆる事象を、澱みなく解説してくれる人だった。
私が「きれいな屋根の色だね」と呟けば、あなたは私の背後から、静かに、けれど確信に満ちた声で教えてくれた。
「この街の屋根がオレンジ色で統一されているのは、18世紀の港湾法の名残でね。アドリア海の特定の地域の粘土の色を模しているんだ。つまり、この風景全体が、遠い海への憧憬でできている」
教会の鐘が鳴れば、「あの鐘の音は、物理的にはただの音波の振動に過ぎない。けれど、何世紀にもわたって人々の祈りや祝い、弔いの記憶を吸収してきた。だから僕らには、時間の重さとして聞こえるんだ」と語った。
あなたの言葉は、いつも正しく、深く、そして美しかった。まるで、この世界に関するあらゆる問いに、完璧な答えを用意しているかのようだった。その膨大で正確な知識に裏打ちされた表現に、私は心酔した。あなたの目を通して見ることで、私の世界は初めて、意味と物語で満たされた気がした。
あなたがいなくなった今、私は一人で窓辺に立つ。
あなたというフィルターを失った視界は、ひどく心もとない。
鐘が鳴る。けれど、私にはもう「時間の重さ」は聞こえない。ただ、腹の底に響く、鈍い音として感じるだけだ。オレンジ色の屋根を見ても、「憧憬」という言葉は浮かんでこない。ただ、西陽を浴びて、燃えるように鮮やかな色だな、と思うだけ。
私の感覚は、なんて浅はかで、陳腐なのだろう。
素晴らしい表現を、完璧な解釈を、あなたは惜しみなく与えてくれた。その結果、私はどうだ。あなたの言葉を失った今、私の内側には、空っぽな空間が広がっているだけではないのか。
じっと考えてみる。
あなたの言葉は、世界を読み解く美しい「答え」だった。あまりにも完璧で、揺るぎない答え。
では、私は?
オレンジ色の屋根を見て、「暖かそうな色だな」と感じる、この取るに足らない感想。鐘の音を聞いて、「ああ、お昼の時間か」と空腹を覚える、この身体的な反応。
それは、答えですらない。あまりに拙く、個人的で、誰にも評価されない、ただの断片。
けれど、それは紛れもなく、私の中から生まれたものだ。
世界は、あなたの解説がなくとも、ただ、そこに在る。そして私は、答えを与えられる前から、確かにここで息をしていた。
あなたの視線を気にしていた、記憶の中の後ろ姿がふと揺らぐ。
記憶のなかのピントが少し変わった気がした。
こちらの企画に参加させていただきました。
素敵なお題をありがとうございました。
いいなと思ったら応援しよう!
ここに投じられたお金は、カフェインに変換され私の体内を駆け巡ります。結果として創作物のテンションが少し上がってしまうことをご了承ください。