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~のろし(狼煙)と海上の通信システム~

携帯電話やスマホ等が普及してから、メールやSNSによるコミュニケーションが常態化している。昔から意思の伝達や連絡の方法として様々な方法があり、動物的本能として声や音を出す、手を振る、やや遠くには手を丸めて大声を出し叫ぶなど。

その昔、わが国には意思の伝達距離を徐々に伸ばす為に、奈良・平安時代に山頂や高台等に造られた 「峰火(とぶひ)」というものがある。「とぶひ」とは、日中は草木を燻した煙を空高く上げ、夜間は火を起こし、外敵の来襲あるいはそれらの防御方法の確認などの意思伝達や連絡の手段として用いられた。

その後、昼間は「のろし(狼煙)」、夜間は「かがり」「かがり火」と呼ばれるようになり、戦国時代は戦場や海戦等で盛んに用いられたという。

瀬戸内海風景 ⑴

又、「狼煙」は狼の煙と書くが、乾燥させた狼の糞が煙の出が良かったので狼煙と書くようになったようだ。そしてより遠くまで意思伝達(遠距離通信)の必要性から太鼓、貝笛、視覚信号として狼煙、旗、太陽光を用いた鏡反射器等が用いられるようになった。

一方、海上の船でも煙やかがり火等、鏡反射器、手旗信号、旗りゅう信号等が用いられた。「旗りゅう信号」として有名なのは、ネルソン提督の掲げた「・・DUTY」、日本海海戦で東郷元帥が揚げた「Z」旗であろう。

そして、眼で見える範囲の海上での近距離通信には、昭和50年前後まで日本でも著名な岬の通過、入港1時間前や入港時港口などではモールス符号による発光信号が用いられていた。

画像中央にあるのがポータブルの昼間信号灯装置

誰何(すいか)された際、本船側でも慣れたもので、三航士の時、和歌山の日ノ御埼灯台や伊良湖水道の神島灯台の通過前等に、本船に対して発光信号による「船名」の問い合わせがあり、即、発光信号で返答したこともあった。懐かしい記憶だ・・・

その後、近距離通話ができる無線電話や船舶電話(初期は交換手が対応)が発達するようになって、モールス符号による発光信号は必要性がなくなった。

現在、自衛艦艇や海保の巡視船艇以外、発光信号による意思伝達はほとんど行なわれていない。(但し、船舶の海上交通ルール上の発光信号は、疑問信号、注意喚起信号等として世界共通であり、国際的にまだまだ用いられている)

瀬戸大橋下を通過

「狼煙」 にかかわる話題をもう一つ述べると、我々人間が船を使って河や海に乗り出すようになると、安全に船に乗り下りしまた荷物の揚げ積みのための場所、あるいは荒天を避けるような場所が必要となる。

それらがそもそもの港の起源と言われている。港を表す言葉で英語のportは、ラテン語のportare(運ぶ)、又、harborは「軍隊を避難させる所」 というのが語源とも言われている。

その昔、日本では港を指すのに「津」や「泊」という語が用いられて、海岸や河川に沿った町の名前にそれらの名が残っているところも少なくない。また、ミナトには、水門、水戸、湊などの字があてられて、港の多くが河口や岬など陸岸に挟まれた入江に造られていた。

三重県の鳥羽湾は坂手島・菅島・答志島の三島に囲まれた自然の防波堤とする良港であり、昔から太平洋側航路における避難港の役割を果たしてきた。その鳥羽の地名は、それを意味する 「泊場」 に由来するという説がある。

船が岸沿いや狭い水道などを航行する際に、山や岬などの自然の目標物を頼りにするだけでは紛れやすく、また夜間は暗くて見えにくいことから、日中や夜間の何れであっても見やすい標識を設置して、航海の安全に備えることは洋の東西を問わず 古くから行われてきた。こういう標識のことを一般に航路標識と呼ぶ。

日本でも航行する船の目標とするために、浜や岬の突端で「かが り火」を焚いたり、「狼煙」を揚げるなどの方法は古代から行われており、河川や沿岸の浅瀬には目的地、船の水路、障害物の所在など を示す標識 「木柱」 も立てられていた。

澪標(みおつくし)

この木柱(澪にくいを並べて立て、船が往来するときの目印にするもの)のことを、「澪標(みおつくし)」と言い、大阪市章デザインのもとになっている。

江戸時代に入り、上方と江戸を結ぶ菱垣廻船・樽廻船等による内航海運が 発展してくると、石造台の上に木造の灯明台が沿岸各地に建てられ、また、海岸近辺の高台に建てられた寺社の常夜灯等も船の目印としてよく利用された。

その後、19世紀にランプ゚ が 光源として導入され、その光をレンズ で 拡大する方法が確立したことにより、灯台の性能は飛躍的に発展した。

観音埼灯台

我が国における西洋式灯台は、明治元年に観音埼灯台を皮切りに続々と建設され、潮岬、神子元島、佐多岬、剣崎、友ヶ島、石廊崎、犬吠埼、御前埼など28個の灯台が 建設された。

犬吠埼灯台

上方と江戸を行き来した樽廻船 : 江戸時代、上方(畿内地方)で生産され、大消費地である江戸へ運ばれて消費されるものを、「下りもの」と言ったが、その中でも伊丹や灘で作られる「下り酒」 は代表的な樽もの商品であった。

神子元島灯台

江戸中期頃までは、木綿や醤油などと共に海路を菱垣廻船で江戸に送られていた。酒は腐敗しやすいので輸送時間をいかに短縮するかが重要であったが、様々な荷物を乗せる菱垣廻船は、出帆するまでに長い日数を必要とした。

樽廻船

その為、これに不満を持った酒問屋が、1730年(享保15年)に酒専用の樽廻船問屋を結成し、以降は、「樽廻船」として酒荷だけを積み込んで輸送するようになった。いわゆる、酒専用の荷物を運ぶ事で積み込みの合理化を図り輸送時間(航海時間)の短縮を実現している。

当時、大坂から江戸までの航海日数は平均30日を要した。昼間は陸から離れ過ぎないように走り、暗くなる前に最寄りの港に入り、悪天候の日は港で避難待機し、天候が回復してから再び出港するといった日和見重視の航海であった。

航海日数は著しく不安定で、早ければ10日という時もあり、遅ければ2ヶ月近くかかるときもあった。 その後、江戸時代後期に向けて航海技術の進歩や帆の改善、港の整備等により所要日数は次第に短縮され、幕末時点では平均10日にまでなったという。

江戸湾に入り品川沖に着いた「樽廻船」から、酒樽は伝馬船に積み換えられ新川、新堀、茅場町辺りに軒を連ねる酒問屋の蔵に揚げられた。

伝馬船

※ 船体構造は菱垣廻船とほぼ同じであるが、菱垣のない弁才船と呼ばれる和船の一種で、多少深さを増して船倉を広くした船。

※ 樽廻船は別名「酒樽積廻船」、「酒樽廻船」、「樽船」とも呼ばれた。

※ 余談だが、将軍の御膳酒に指定された伊丹酒で、今なお銘柄が残っている「剣菱」 も下り酒の一つである。

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