井原山登山記

 福岡市西区から糸島市へと入るとにわかに田園風景が広がり、井原山や雷山などの山々が近づいてくる。とある山の書の解説には、この山々は福岡佐賀県境をなしており、とくに北側の福岡県糸島市側は断層の関係もあって急崖をなしているとのことである。それゆえにこそこうして糸島市の平野部から見れば、山々はあたかも屏風を連ねたように東西に悠々とその稜線を広げているのであろう。すなわち山はあるところで一気に切れ落ちていて、かくて糸島の平野部からもその急峻な山の連なりを眺めることができるのであった。

 さてこの日もまた九州百名山の一座を目指して私は山へと入っていく。それはかねてからその名に聞く福岡郊外の井原山である。
 森の麓のあたりはすべて常緑樹であり、その木々の中を谷川が流れ下っている。このあたりの地図を見るに、山々には深い谷が形成されその随所に小滝があるらしく、それはこれから辿る井原山の登山道においても例外ではなさそうだった。かくて都会の雑踏を抜けひとたび森の中にわけ入れば、都会の汚穢はすべて浄化されるようで、私はその美しい谷川の音に聞き惚れるのであった。欲望、煩悩、競争、敵愾、翻弄、刹那の喜び・・・、谷川の水音はこうした人間界のすべてのものを遠ざけ、これを静かに清めていくようだった。それは都会の忘却、人間界からの隔絶、記憶の滅却であって、ここにおいて私はついに都会から離れたことを知るのである。
 谷川は色づいた小さなもみじ葉を運んで静かに流れ下っていた。水は秋を仄めかして、なお流れていた。やがて秋はその水をも錦の色に染め彩っていくのだろう。・・・

秋の井原山登山道

 谷を離れ、急峻な斜面を這い上がっていよいよ尾根にあがった。つい先ほどまでの水音が絶え、その代わりに静謐が支配しようとも、再び私のうちに都会的なものは蘇っては来なかった。どうやら水音は都会の諸要素をすべてかき消していってしまったらしい。静かな山の秋がここにはあった。

井原山から福岡市内を臨む

 登り詰めて私はいよいよ井原山の山頂に至った。ここは四方の光景を一目に収めることのできる素晴らしい頂きで、私はこれまでに登った山々、またこれから登るであろう山々の一座一座を丁寧に眺めた。この展望を仔細に眺めれば、まず東の方角には福岡市から太宰府や筑紫野の街が望まれ、また近郊の立花山や三郡山、宝満山、脊振山、金山、そして遥か遠くには宗像の大島や福智山をも見わたすことができた。そして西にはこの脊振山系の山々が雷山、羽金山と打ち続き、南には天山やまた多良岳、経ヶ岳、雲仙岳などの山々や有明海、佐賀平野などがあった。さらに北は糸島市や玄界灘の方面である。北西方向のはるか海上の果てには壱岐の島が霞んでいた。・・・

 私の心をしばし掴んで離さなかったのは、やはり玄界灘の青い大海原である。壱岐や対馬それから朝鮮半島へと続くこの大海原である。ふと思い起こされるのは、こうした九州北部の沿岸に防備のために置かれた防人のことであり、私はかつて詠んだ防人たちの歌にいま思いを馳せるのである。
『万葉集』巻二十に収められた防人の秀歌・・・・
・「父母が頭かき撫で幸くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる」
・「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」
・「わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず」
・「防人に行くは誰たが背と問ふ人を見るがともしさ物思もひもせず」
・「我が妻も画にかきとらむ暇もが旅行く我は見つつ偲はむ」
・「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを」
・「筑波嶺のさ百合の花の夜床にもかなしけ妹そ昼もかなしけ」
・「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」
・「天地の神を祈りて征箭貫き筑紫の島をさして行く我は」

 唐と新羅の連合軍に大敗した白村江の戦いの後、わが国は自らの国を守らんと危機感を募らせていた。大野城や水城、基山など、いまも九州北部にあるこうした地名はそのころに築かれた防衛施設の名であって、防人もちょうどその時代に置かれることになったらしい。張り裂けんばかりの防人の胸のうちが『万葉集』巻二十のなかに込められているような気がして、私はそれらの歌を忘れ去ることができない。
 
 はるかに見渡せば、わが国の歴史はこの海の青の最奥に静かに堆積し、静まっているかのようだった。しかるに今日見た海の底抜けの明るさとは一体何だっただろう。北の海の底抜けの明るさとは! 思うにそれは忘却であり、また時代の懸隔であったかもしれない。

井原山山頂から見た糸島市内と玄界灘

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